正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

南山の奥  (第86回)

 小欄では、乃木さんだの東郷さんだのと馴れ馴れしい感じで気軽に書いているのだが、奥保鞏陸軍大将は、その伝でいくと奥さんになってしまう。どうにもならない。その奥さんについて、司馬さんは文庫本第四巻「遼陽」において、「南山の奥」とカッコ付きの表現をしている。「この当時もこののちも」と続いているので、南山の奥は、陸軍における彼の勲章のような呼び名になったらしい。

 もっとも、この遼陽は南山から遠く離れた遼東半島の付け根のほうにあり、別の会戦場である。司馬さんは、南山の場面でこの「評価の材料」を敢えて使うことを避け、時間的にも地理的にも離れた箇所で引用している。意図的にか無意識にか知らないが、不測の損害を出した戦場の描写においては、美辞麗句を控えたようにも思う。


 その遼陽における「南山の奥」の司馬さん的解釈は、奥の「勇猛心と決断力が、大きくものをいった」のであり、「あの南山の凄惨な戦況の中で、奥はよく堪えた。ふつうの将領なら、攻撃を中止したであろう。」と推測する。一方、特にロシア側でものをいったのは、当時「機関砲」と呼ぶことになった、日本軍にとって初見の凶器、機関銃だった。もっとも早々に河合継之助が買い入れたエピソードが紹介されている。フランス帰りの好古も評価し、早く買えと矢の催促をしている最中であった。

 南山の戦では、後に遼陽でも第二軍に属することになる「勇猛で知られた」名古屋の第三師団と、弱兵という前評判を覆し「もっとも勇敢」で「まっさきに占領」という戦いぶりを示した大阪の第四師団、これらに加え、南山のあとで第三軍に編成替えになる東京の第一師団が奥の配下にある。偶然だろうが三大都市圏からの出征だ。偶然でないなら、急ぎの招集に際しては便利な都会の行動が早かったか。


 私がここ最近ながめている南山の「第二軍戦闘報告」は、「坂の上の雲」の一部と大変よく似ているので、おそらく司馬さんが調べた資料の中に含まれていたに相違ない。小説の奥さんは、自分の功績を消して歩くような不思議な人物として描かれているが、奥大将名義のこの報告書も、事実関係と、兵は良く戦った、海軍の協力に感謝するといった端的な内容に終始している。

 また、大本営が桁が一つ違うのではないかと訝ったという名高い話の発端になっている死傷者の速報は、「約三千五百名」にのぼり、後の集計で4千人を超えた。機関砲のみならず、大小の砲、地雷(もう、あったのか)、鉄条網、トーチカからの銃撃と、即席であるのに近代要塞が猛威を振るった。「肉弾」によれば、南山はなだらかな裸同然の山で、敵からこちらがよく見えたらしい。


 師団の配置は第四が右翼、第一が中央、第三が左翼。右手にある金州城には第四師団と、続いて第一師団も担当したが(乃木さんの長男はここにいたのだろう)、この5月25日は「迅雷風雨」、「咫尺ヲ辮ンゼズ」(ときどき出てくるが、近くのものさえ見分けがつかないという意味だそうだ)の悪天候で、攻撃は一旦停止、しかし夜襲で金州城は陥落した。その先に南山がある。

 翌26日は濃霧。秋山騎兵隊は、少し離れて待機。まずは砲兵の出番だったが五時間撃ちっぱなしで、砲兵担当の内山少将が後に数えたところ、この一日の戦闘で日清戦争における砲弾の消費量を超えたという話が載っている。


 先ほど海軍の協力云々と書いた件は、奥軍の報告書に、「我が艦隊の四艘は金州湾より、この砲撃を援助せり」とある。「坂の上の雲」にも、筑紫ほか砲艦と水雷艇が一支隊を組み、艦砲射撃を行ったと出てくる。筑紫は日清戦争で真之が乗り組んでいた船だ。別の資料には、赤城も出てくる。鏡のごとき黄海で、西京丸の護衛にあたった船だ。

 この海軍の加勢は、イギリスのタイムズ誌により報道され、それが日本の新聞にも翻訳・引用されている。実際、連携は優れていたらしい。ロシア側の砲台は沈黙した。特にダメージを受けたと見える敵左翼を撃つべしと、小倉仲間の小川中将が奥大将に献策し、今謙信の率いる第四師団が前進、白兵戦が午後七時ごろまで続いた。


 第二軍の苦戦は相当なもので、「肉弾」によれば奥さんは三回にわたる総攻撃命令を出した。それでも敵は退かない。わずかの時間差でこの戦いに参加できなかった櫻井少尉は、少し悔しそうな感じで、「奥司令官は精励叱呼、『大和魂とは、どんなものか!』と言った。すると全軍にわかに奮い立ち...」という経緯で、南山守備のロシア軍は旅順に向けて退却した。

 のちに櫻井さんの連隊がとらえた捕虜のロシア兵の語るところによれば、南山ほかで敗退した兵は、旅順要塞に入れてもらえず、外側で第三軍を迎えうつことになった。戦意を喪失した兵が要塞内に入って来たら士気が衰えるという判断か。きっと、それはそうだろう。だが、要塞内の兵にとってみれば、明日は我が身だろう。武器だけで戦争はできない。


 このあと、第二軍は反転して遼東半島を北上し、黒木第一軍と合流して遼陽に向かう。櫻井少尉の歩兵第二十二連隊は、南山戦の直後に編成替えで第三軍に組み入れられた。そのあとで上陸した乃木司令官は、読む下すと「十里風、睲し、新戦場」と始まる漢詩をつくった。「肉弾」の序にも、「睲風血雨の惨酷に泣けり」という表現が出てくる。そして、これは始まりに過ぎなかった。

 大きな戦果の一つは、敵軍が近くにあるダルニーの良港を捨てて逃げたことだろう。日本軍はこれを占拠して、大連という名を取り戻した。大山と児玉が大連湾に上陸するのは、この後のことである。これから櫻井少尉の連隊は、第三軍の指揮下、旅順に向かって南山の先にある敵陣地を一つ一つ落としていくという苦労を重ねるのだが、乃木軍の話は別途まとめて書きたいので、いったん「肉弾」から離れる。





(この稿おわり)







春爛漫  (2016年4月3日、近所にて撮影)




























金州城攻撃の歌 (部分)

 されども門扉堅くして 砕ける様も見えざれば
 ここに一人の勇士に 小野口徳治と呼びなして
 自ら爆裂薬を執り 左右に並ぶ敵兵の
 中を恐れず顧みず 佩はく太刀と村田銃
 我が身の護りと担いつつ 難なく寄せり門際に


 日清戦争従軍の際、子規は小野口上等兵が爆破したという金州の城門を取材したらしい(伊集院静著「ノボさん」より)。
 









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