正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

王子紀行  (第89回)

 前回、どこで読んだか覚えていないと書いた不折の住まいに関する子規の一文は、あっさり見つかった。「ひとびとの跫音」の「子規旧居」という章に出てくる。折レ曲リ折レマガリタル路次ノ奥ニ折レズトイヘル画師ハスミケリ。中村不折は先ず絵、続いて書で名をなしたが、子規にとっては画師である。

 中村不折も、子規や秋山兄弟と同様、よく引っ越しているのだが、根岸の里に住んでいたころは、子規や羯南翁と同じく鶯横丁に面した家で暮らしていて、私も週一度ぐらいその横や前を通る。画師もその奥様も、しきりと病床の子規に食べ物や草花の差し入れをしていたことが「仰臥漫録」などにみえる。

 
 まだ人力車でなら動けたころ、子規は近所を車で巡っては記事にしていた。司馬さんは「書く人がいなくなってきた」(従軍で記者が減ったため)というような観察をしている。子規の関心と直接関わりが無いとしても、会社員なのだから仕方がないのだが、当方は近所に住む後輩、それだけでも嬉しい。亡くなる4年前、明治三十一年の短文に「夕涼み」というのがある。

 夕日が上野に沈み、ひぐらしが谷中に鳴いている。夕方の風に誘われて車に「かろうじて」乗せてもらい、外に出れば空は思いのほか広い。そんな書き出しで始まり、あとは見分したものと俳句の繰り返しという彼得意の文章構成になっている。

 
 このときの外出はまだ遠出する元気があって、上野を越えて両国まで行くのだが、出がけに近所で不折の家の前を通過した。引越してきたばかりのようで、こう書いている。「不折の新居の門口までおとずれて裸の主を驚かし」、葉鶏頭の苗養ふや画師が家。不意をつかれ、くつろいでいた姿を記録されてしまった不折だが、この葉鶏頭はその二か月後に、不折が子規庵に植えてくれたのだ。

 前回、はしょってしまったのだが、浅井忠先輩が中村不折を子規に紹介してくれたのには事情があり、子規が陸羯南社長に「小日本」を任されたため、挿し絵担当の画師を探していたのである。ちなみに数えでいうと、子規は不折の一つ年下、漱石と同い年、真之の一つ年上で みなさん同年代である。


 この「小日本」については、「坂の上の雲」文庫本第二巻の「日清戦争」に発行の経緯が出てくる。しばしば発禁処分になったという論説誌「日本」の救援投手として、会社の経済を救うため「家庭向きで上品な」編集方針で始まったのだが、結局は「ほどなく政府の弾圧をくらって発行停止」になった。「日本」と一網打尽にされたのか、それとも家庭向きで上品ではなかったか。

 これが明治二十七年。子規は数えで二十七歳。せっかく新設した新しい社屋も閉めて「日本」に戻るのだが、貴重な機会となった。俳句の研究が進んだ。編集の腕も振るった。すなわち、彼の「事業」が本格化したのである。そして、中村不折と出会った。前回に引用した「墨汁一滴」の該当箇所によれば、子規は即断で不折を採用したようである。

 なお、司馬遼太郎は、子規が「小日本」の編集主任になったという表現を使っている。虚子は、居士が「小日本」を経営していたと書いている。子規本人が一番の豪勢な言葉遣いであり、「予の新聞『小日本』」と言いきっている。まあ、どれも似たようなものでしょう。陸羯南は好きなようにしてくれて、しかも給料を上げてくれた。


 ところで、その「墨汁一滴」の最後のほうを読むと、初対面の記事が出た明治34年6月26日の翌日、子規は引き続き不折を話題にしているのだが、「君が服きたなきと耳遠き」がゆえに世の常識に付いて行き切れず、食うや食わずの生活だったのだと書いている。

 その翌日もさらに、画家には珍しく雄弁な不折が、時に人からうるさがられるという話を持ち出しつつ、「これ君が聾なるがためのみ」と書いている。ただし、全く聴こえなかったわけではなく、子規と会話も交わしているし、後日、「君は耳遠きがために人の話を誤解する事多し」とも書いている。


 中村不折は、耳が良く聞こえなかったのだ。奥保跫将軍と似ている。子規も不折も体に不便があった。これを乗りこえるべく、やや一方的な発信になっているが、感受性を研ぎ澄まし、表現能力に磨きをかけた。

 そんな不折に子規は言いたい放題であり、西洋画家はやめるべしだの、西洋に留学しても勉強などせず見物で充分だから、あまり上手くなって帰るななどと書いている。一方で子規には楽しい思い出もある。「墨汁一滴」に先立つこと7年前、「小日本」の発行二か月後のことである。子規は「鳴雪翁」と「不折子」の三人連れで王子まで行楽をした。


 それが「王子紀行」というエッセイになって残っているのだが、この題名は不折がこのときに描いた一連の絵、それも数十枚の画集名としても出てくる。王子とは今の北区の王子で、信さんが受験の際に勘違いした飛鳥山があるところ。滝あり神社あり、桜の季節でなくても今なお風情があり、私も年に一回くらいは遠出する。

 子規はこの遊びをそれぞれ絵と句にして、腕比べをしようと持ちかけ、不折は諾と言った。結局、子規の完敗で終わる。彼が一句も発しないうちに、不折がその数十枚を自宅に持ってきたのだ。その一枚だけが紹介されており、これしか載せられないのは残念だと子規のほうが言っている。


 王子は石神井川飛鳥山を巡って流れ、江戸の昔から堰き止めがあって、滝になっていることから滝野川ともいう。今でもそういう地名が残り、何度も小欄で触れて来た子規庵そばの音無川も、この水系から水を引いた運河である。一枚だけ手元にある絵には、対岸に十三夜の月が浮かぶ夕暮れどき、滝の上の橋にたたずむ内藤鳴雪正岡子規のシルエットが見える。

 不折は俳句を語り続ける二人と離れ、スケッチに余念がない。「不折子、独り欄に倚りて写生す。聞かざる者のごとし。」と子規は書いている。墨汁一滴の記録に気が付くまで、私はただ単に、不折は孤独癖のある変わり者(画家はみんなそんなイメージ)と勝手に思い込んでいた。聾は和語で、「みみしい」と言う。子規は遠慮も無く、愛着をこめて一句を残している。

 聾のひとり月にぞ向ひける



(この稿おわり)




ご近所にて、2016年5月撮影。菖蒲、薔薇、藤。





































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