正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

鉄砲鍛冶  (第18回)

 拙宅の近くに上野の寛永寺と谷中の天王寺の墓地および都立の谷中霊園がある。互いに隣接していて境界線も定かではないため、ひっくるめて谷中墓地と呼んでいる。解放的で広々としているため、墓場らしき暗さが無く、私のお気に入りの散歩コースになっている。

 有名どころでは徳川慶喜の墓があり、お琴の宮城道雄やニコライ堂のニコライさんのお墓もある。司馬作品でよく出てくる人物としては、幕臣阿部正弘や伊予宇和島藩主の伊達宗城、福地桃痴や「坂の上の雲」にも登場する渋沢栄一のお墓などがある。


 引っ越してきたころ、鳩山家の墓地は静かで清らかであった。それが政権交代で一族から総理大臣が出たため、人気スポットになってしまい、あまりの混雑に警備のパトカーまで出た。

 しかし訪問客が段々と減り、パトカーも来なくなった。しばらくして墓にペンキをぶっかけるというバカな事件があり、別の目的でまたパトカーが来るようになった。今はまた静かになっている。なまじの内閣支持率などより、はるかに分かりやすかった。


 さて、ある日のこと墓地を歩きながら何気なく故人のみなさんの名をながめていたら、有坂成章という名のお墓があった。ちょっと古い感じだったので墓石の回りを眺めたら明治期の軍人らしい。
 
 そのころまでに少なくとも三回は「坂の上の雲」を通読していたはずなのだが不覚にもこの名に記憶になかった。有坂さんは文庫本第四巻の「旅順」に出てくる。ここの要塞が落ちない。陸軍の参謀本部次長の職にあるおヒゲの長岡外史も困りに困った。


 或る日、長岡次長が砲兵課長に会いに行ったとき、偶然、有坂成章少将がやってきた。大砲や鉄砲の権威であり、この人物が開発した速射砲や銃は世界レベルの傑作で、日露戦争でも大活躍している。彼はこの当時、陸軍技術審査部長。日露戦争は各分野において仕事熱心な技師や職人が、優れた武器を創り出し効果的に使った。もっと強調されて良い勝因である。

 旅順は今の大砲なんかじゃ落ちないよと有坂さんは長岡に対して無造作に言った。長岡も気を悪くして、何か良い作戦があるんですかと訊いたが、私には作戦はわからんというご返事であった。


 でもアイデアがあった。「二十八サンチ榴砲弾を送ろうじゃないか」と有坂さんは言う。陸軍は当初、フランス式だったのでサンチという仏語で呼ばれていた。英語でセンチ・メートル。このずんぐりむっくりした巨砲は、イタリアから技術を得て国産した沿岸警備用の大砲だったらしい。

 海辺に固定されているが、それを引っこ抜いて旅順で使おうという提案である。あれを外したら国防は大丈夫かと長岡は不安だったが、旅順のため国が滅びかけているときに海岸防備も何もあるかいというのがこの専門家の見解であった。長岡が山県有朋の許可を得に行くと、「有坂のいうことならまちがいあるまい」と彼にしてはシンプルに同意した。


 長岡が第三軍に打った電報が引用されている。この巨砲を大連に送る。「意見アレバ聞キタシ」と書き添えたところ、意見が帰って来た。いわく「送ルニ及バズ」というものだったらしく、これは長岡のみならず司馬遼太郎を怒らせた。「これほどおろかな、すくいがたいばかりに頑迷な作戦頭脳」、「歴史に大きく記録されるべきであろう」と書いている。

 とにかく大本営側は送り付けた。しかし、これを旅順に備え付けて使うためには、さらにこの忙しいときに児玉源太郎遼東半島の付け根から先っぽまで出張させなければならなかった。

 今はご近所にいなさる有坂さんだが、出身地は遠く山口県の岩国市である。私は若いころ、一人で錦帯橋を見るためという目的だけでここまで旅行したことがある。その名に恥じない優雅な橋で、いつだったか台風で壊れてしまったときはショックだったが、どうやら無事修復されたらしい。
 


(この稿おわり)



お江戸の華なら団十郎
(2014年8月14日撮影)










 うつつに夢見る君の神田は想い出の街
 今もこの胸に この胸にニコライの鐘も鳴る
 楽し都 恋の都 夢の楽園よ 花の東京

             「東京ラプソディー」  藤山一郎
























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