正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

須磨  (第19回)

 文庫本第二巻の「須磨の灯」は、どうやら最初は子規の「病」、続いて虚子の「子規居士と余」、さらに漱石の日記が主な種本になっているようだ。子規は念願の日清戦争の従軍記者になった。陸羯南社長は子規の体調を慮って渡航を許さなかったのだが、記者団に欠員が出て急募があり、子規が子供のように喜んで訴えたため、陸先生もつい折れたらしい。

 一つには、時期的にそろそろ好きなことをさせてやりたいという気分が、段々と膨らんできているようになっていたのかもしれない。それにこの楽天家の象徴のような男の戦場報告というものも読んでみたくなったのかもしれない。だが現実には、そう上手く事は運ばなかった。子規が出発する前に、清国が降参して講和条約の交渉が始まってしまったのだ。


 つまり、軍隊は残っているから従軍は従軍かもしれないが、戦争が終わっている。子規は好古とそっくり同じルートを辿りつつ宇品から大陸に渡り、金城や旅順を回ったが既に戦場跡である。さぞかし悔しかったろう。1985年の4月に出発して、5月にはもう大連から帰国の途についている。同じころ大山巌大将も凱旋している。

 帰りの船の中で子規は、「なんだかつかれたようだったから、下等室で寝ていた」と「病」に書いている。すると誰かが「鱶が居る、早く来い」と彼の名を読んだ。鱶とはサメだが、イルカと同様、船を追いかける習性などあるのだろうか。子規は跳び起きて甲板まで走り、着いたと同時に血を吐いた。

 
 医者はコレラの薬しか持っていないらしいという噂は「坂の上の雲」にも出てくる。しかもどうやら投薬しかせず、治療はしないと子規は書いている。医療器具がないのだろう。已むなく彼は寝床で静かに横たわり、時々「カクシの薬」など飲んでみたが血が止まらない。さすがの彼も「無聊に心配が加わって」と心配そうだ。無理がたたったのだろう。

 この船の検疫は、下関で行われたらしい。子規は山の緑の美しさに感嘆しつつ、彦島に上陸した。風呂に入り、着物の消毒も受け、散歩した。彦島とは壇ノ浦の戦いで、平家が最終決戦に臨むべく平知盛が軍勢を集結したところだ。となりに、武蔵と小次郎が戦った巌流島もある。このあたりを歩いたことがあるが、海峡を行き来する数多く大小の船影が壮観であった。


 あいにく子規が乗った船からコレラの疑いがある者が出てしまった。子規は一週間停船という措置に遭い、そのうちなぜか脚が冷えて来た。感染したかと恐れている。船長や検疫官と交渉しても埒が明かない。閉じ込められて、あまり楽天的でいられなくなった。

 ここは壇ノ浦に近い。「平静の志の百分の一もし遂げることができずに空しく壇ノ浦のほとりに水葬せられて平家蟹の餌食となるのだと思うといかにも残念で溜まらぬ」とわずかのユーモアを残しつつ書いてはいるが、船内では喀血が更にひどくなり、吐き出す器もないので飲み込むしかない。


 ようやく放免の日が来た。下船の地は今の神戸空港のそばで和田岬という。しかし、彼はそこで力尽き歩けなくなった。そのまま担架で運ばれて須磨の「神戸病院」に入院した。狭くて暗い船室と比べて「極楽」のようであり、ここなら死んでも良いと思ったらしいが、喀血はますます悪化して心細くなってきたところへ、東京から家族や虚子たちが来て「騒ぎになった」。

 この「病」の原稿の余白にでも書き入れたのだろうか、「坂の上の雲」にはここでの子規の句として「須磨の灯か明石のともし時鳥」とある。時鳥、ホトトギスと読み、子規とも書く。子規と号したのは死期を悟ったからだという説を、私の母の俳句の先生が言ったそうだ。そんな発想をする男とは到底思えない。即刻、先生を変えるべしと母に伝えた。


 須磨と明石の地名は「源氏物語」の巻名にもあり、実際、子規は入院中に源氏を読み、「おどろかされるのは、源氏の写生力じゃ」と後にお見舞いに来てくれた真之に興奮気味に感想を述べている。どうやら子規の「写生」とは、単に写真のように見えるとおりに表現するということではないらしい。そのときの気持ちがそのまま伝わるように詠めということだろうか。

 光源氏は須磨に流されたという人が少なくないが、どう読んでもそれは誤解で、未練たらたら逃げ出しただけだ。大きな理由としては政争に敗れたからであり、直接のきっかけは皇太子に嫁ぐはずだった朧月夜にちょっかいを出し、相手も相手で良からぬ関係が続いているのが発覚した。


 源氏の君ご一行様は、最初のうち都からあまり遠くに行きたくないという実に情けない理由により、神戸の須磨に移り住んだ。ここで嵐はあるわ雷で火事になるわ、挙句の果てに夢枕に父親が立ち、「こんなところで何をしておる」と説教されて再度、引っ越すことにしたという。要は女がいなかったからだろう。

 そちらの希望が達成された近所の明石では長逗留しているのだから間違いない。彼の血統は、結果的にはこの明石の一族の流れが最も繁栄した。さすが野生株は強いのだ。さて、羯南の命で看病に来た虚子のおかげで子規は小康を得た。さっそく、「気をよくして」須磨を去り、故郷の伊予松山に向かうことになった。私は明石にも行ったことがある。風光明媚とはこういう地をいうのだろう。



(この稿おわり)





風鈴  (2014年8月10日撮影)







  読み差して月が出るなり須磨の巻     子規












































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