正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

幸徳秋水  (第28回)

 軍艦の話ばかり話題にしていると軍国主義者かと思われては困るので、今日は正反対のテーマを取り上げる。愛読書の一つに丸谷才一著「文章読本」(中公文庫)がある。

 その第十章には、文章に緒論・本論・結論と並び立てなくてよいという主張の実例として、幸徳秋水が自ら起こした「平民新聞」の明治37年2月14日号に掲載した記事が掲載されている。

 引用は必要なら、どんなに長くても構わないと、この本の中で丸谷さん自身が仰っていることだし、丸ごと全文を引用する。ただし旧字体の漢字は転換作業が大変なので現代の字体でご容赦願いたい。記事のタイトルは「兵士を送る」。冒頭の「行矣」は「ゆけ」と読む。これを読みたくて、この本を何度も何度も手にしている。



行矣従軍の兵士、吾人今や諸君の行を止むるに由なし。
諸君今や人を殺さんが為めに行く、否ざれば即ち人に殺されんが為めに行く、吾人は知る、是れ実に諸君の希う所にあらざることを、然れども兵士としての諸君は、単に一個の自動機械也、憐れむ可し、諸君は思想の自由を有せざる也、躰躯の自由を有せざる也、諸君の行くは諸君の罪に非ざる也、英霊なる人生を強て、自動機械と為せる現時の社会制度の罪也、吾人諸君と不幸にして此悪制度の下に生るるを如何せん、行矣、吾人今や諸君の行を止むるに由なし。
嗚呼従軍の兵士、諸君の田畆は荒れん、諸君の業務は廃せられん、諸君の老親は独り門に倚り、諸君の妻兒は空しく飢に泣く、而して諸君の生還は元より期す可らざる也、而も諸君は行かざる可らず、行矣、行て諸君の職分とする所を尽せ、一個の機械となって動け、然れども露国の兵士も又人の子也、人の夫也、人の父也、諸君の同胞なる人類也、之を思うて慎んで彼等に対して残暴の行あること勿れ。
嗚呼吾人今や諸君の行を止むるに由なし、吾人の為し得る所は、唯諸君の子孫をして再び此惨事に会する無らしめんが為に、今の悪制度廃止に尽力せんのみ、諸君が朔北の野に奮進するが如く、吾人も亦悪制度廃止の戦場に向って奮進せん、諸君若し死せば、諸君の子孫と共に為さん、諸君生還せば諸君と與に為さん。


 丸谷さんいわく「情理兼ね備わるという賛辞はこのためにある」というこの文章は、理から始まり堪りかねず情へと移っていく。特に私がこの中で秋水の神髄をみるのは、「然れども露国の兵士も又人の子也、人の夫也、人の父也、諸君の同胞なる人類也、之を思うて慎んで彼等に対して残暴の行あること勿れ。」という一文である。

 先ほどの発行日にあった明治37年というのは、西暦でいうと1904年。この年の2月10日に日露両国が宣戦布告して、日露戦争が始まった数日後に書かれたものである。だから「露国の兵士」が相手なのである。慎んで彼等に対して残暴の行あることなかれ。


 秋山好古は戦闘が終わったとき、さすがのコサックも余裕がないときに已む無く置き去りにして去った敵兵の亡骸を「うめといてやれ」と言っていた。日本海海戦のとき、敵の巡洋艦らが海に投げ出された露国の兵士を救出する間、日本の海軍はこれを攻撃せずに待った。余裕があれば敵兵も拾った。捕虜の扱いも丁寧だった。そんな話が文庫本第八巻のあちこちに出てくる。

 それにしても戦中戦後、日露両国でどれだけの死、悲しみ、飢餓、廃業、重税をみたことだろうか。戦争が終わり幸徳秋水がその誓いどおり「悪制度廃止の戦場」において反戦運動を始め、わずか戦勝5年後に思想弾圧で逮捕されて、翌年、死刑になった。坂の上まで上り詰めた挙句が、この有り様だったのだ。一朶の白い雲の先には、真之の心まで濡らすほどの雨を降らす暗雲が待ち構えていた。



(この稿おわり)



沖縄にて  (2014年9月11日撮影)





























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