正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

奥浜牛の印鑑  (第31回)

 この逸話で3回もブログを書いたのには私なりの理由もある。百年ほど前に奥浜牛が急報を胸に駆け抜けた道を、ほぼ間違いなく、そうとは知らずに私も歩いている。前々回にも触れた台風のときに、一泊二日で宮古島に立ち寄った際のことである。2010年ごろだったと思う。絶対に同じ道だという確証はないが傍証は多い。

 あのときは事情が事情だけに、空港の近くでホテルを急きょ予約して投宿した。夕食の鰹が実に美味かった。翌日は石垣島行の便が昼頃とあって、宿の周りを散歩した。ホテルのそばの広い通りを北に行くと、すぐ海に出て港がある。今回(2014年9月)はその前を車で通り抜けた。コンテナが並んでいるし、隣の伊良部島との間を結ぶフェリーも出る大きな港で平良港(ひららこう)という。


 この港からまっすぐ南に伸びる一本道を歩くと宮古島市の市役所がある。大きなお役所の場所というのは、よほどの事情でもない限り変わらないだろう。奥浜牛が駆け込んだ島庁と今の市役所が同じ場所であると考えるのが自然である。この役所のある住所も平良で、司馬さんの文中にも出てくる地名である。

 また、この散歩中に古いお社を見かけて、少し境内を歩かせてもらった。建物は改良工事中であったが、表札か何かがあって「漲水御嶽」とあった。御嶽とは先日噴火して大変な被害を出した火山と同じ漢字であるが、「うたき」と読む沖縄の霊場である。「みなぎる水」とは、如何にも島の祭場らしくて良いなと思ったので名前を憶えている。この名も「坂の上の雲」に出てくる。


 該当部分は前回の話題に出した当時の島庁職員さんの日記本文である。1905年5月26日の記録。「本日、山原船、漲水港に入港。該船頭の談に依れば、宮古島・慶良間島の中間位に於て、当島へむけ航行の際、敵艦四十艘余に行き会ひたる旨申し出たり」とある。これだけ材料が揃えば、先の私の推測も妄想とまでは言えまい。

 四十艘余りという船の数は、バルチック艦隊も船が増えたり減ったりしているものの、この小説や海戦図などを読む限り実に正確な報告である。奥浜牛らは生涯の一大事に際し、お船の数まで数え抜いたのだ。国の命で報告するためである。それなのに、対応した駐在の警察官は偉そうな態度だったらしい。

 
 私の母方の祖父も明治生まれの警察官(正確には私が物心ついたときは元警察官)だったが、これまた実に偉そうであった。必要なこと以外は一切、口をきかない。孫を可愛がるという姿勢がない。大学生のとき、たまたまこの祖父と二人きりになり、共通の話題も思いうかばぬまま2時間も二人だけで日本酒を黙って飲んでいたことがある。

 島の警官は上司が怖くて、該船頭すなわち奥浜牛の言うことを容易に信用しない。何度も本当かとしつこく訊いたらしい。「坂の上の雲」によると、奥浜は純朴な性質だったから怒りもせず、「首にかけても真実でございます」と、申し立てた。この首にかけてもという表現は後に出てくる彼の遺言にもある。


 これが説得を早めるためのレトリックかと疑うのは間違いである。奥浜牛は海運業者であり、商人は信用が第一だ。この国家の一大事に関わることで出鱈目を言ったなどと噂であっても広まってしまったら、商売あがったりである。彼と同じ船に乗って来た水夫たちやその家族も路頭に迷いかねない。

 さすがの警察官もこれには圧倒されて、ついに島庁は急報を受け入れた。しかし、その偉そうな態度を改めることもなく、海図まで拡げて遭遇場所を確認し、容疑者でもないのに調書まで作った。ここまでは仕事柄、仕方ないのかもしれないが、その次がひどい。捺印せよと命じた。船頭が印鑑を持ち歩いているはずがない。拇印で充分ではないか。


 しかし、形式主義は頑固である。奥浜牛は印鑑を作るべく平良の町を走った。たぶん当時も今も、平良近辺はこの島一番の繁華街だと思うが、さすがに奥浜という印鑑を店頭で販売はしていなかったらしく、おそらく急ごしらえで作ってもらったのだろう。ようやく手に入れたのは翌26日であった。

 奥浜牛はようやく島庁の調書を完成させた。帰りの船には、何を載せていたのだろう。次の販売所は本島だから雑貨とは考えにくい。宮古島はサトウキビの産地である。泡盛も美味い。畜産も盛んで現地の方の話では、松阪牛とか神戸牛とかブランド名で売られている牛肉も、仔牛の多くはここまで買い付けに来るのだという。

 
 今回の出張においては、印鑑づくりの費用がかかったものの、それを大切なお土産として奥浜牛は家に持ち帰った。警察官の頑迷さも、意図せざるところで役に立った。大正末、息を引き取らんとするとき奥浜牛は、信濃丸より20時間ほど早かったはずの敵艦見ゆの記念品である印鑑を子供たちに渡し、こう遺言した。

 この印鑑は自分がかつて首を賭けて重大な役目を果たした名誉の記念である。末代まで大切にせよ。

 たすきを受け取ったほうの島庁は末代云々の騒ぎではない。当時の宮古島には無線施設が無かったのだ。これは島の責任ではなく、海軍の手落ちか予算不足だろう。後から出てくる沖ノ島には、このころ海軍の軍人が常駐し、海底電線まで敷設しているのに、通り道の候補の一つ、宮古島に通信の設備がないというのは手抜かりと言われても仕方あるまい。おかげで、また苦労する人が出た。



(この稿おわり)






宮古島北部の地図。市役所、平良港のあたり。漲水御嶽の名も見える。
(2014年9月10日撮影)



沖縄のウミヘビ
(2014年9月11日撮影)


































.