正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

垣花善の酒と結晶  (第33回)

 
 久松の五人の漁師が浅瀬に乗り上げたのは、石垣島の伊原間という場所だったと書いてある。この地名は今もあって、石垣島の真ん中より少し北部にある島の幅が一番狭いところに位置する。ここから石垣島の中心街まで約30キロであった。海岸沿いに今も幹線道路が走っている。

 現在ではこの途上に石垣空港がある。私はこの空港から市街地までタクシーで何回か往復したが、車でも相応の時間がかかる。深夜の道を垣花善と与那覇蒲は走りに走り、八重山郵便局を朝の4時に叩き起こした。そのまま座り込んでしまったとあるが、私なら宮古島沖の船上で死ぬ前にダウンして何の使い物にもならない。


 八重山郵便局は、もしも当時と同じ場所にあるなら、私はフェリーに乗ったり食事をしたりするために、その前を何度も歩いて通り過ぎている。夜明け前に起こされて郵便局の宿直も驚いただろうが、これには感動したに違いない。小説には書かれていないが、宮古島のみならず石垣島で垣花善たちに関わった人たちも、みんな黙ったままだったようだ。今ならFacebookでVサインが拡散するだろうが。

 石垣島には確かに海底電信所があった。ここから海底ケーブル経由、本島の那覇にある沖縄県庁と、東京の大本営に「敵艦見ゆ」の電信が飛んだ。今度は光速と同じスピードで伝わる。結論からいえば届いたのは、信濃丸からの至急電が受信されてから一時間ほど後刻のことであったらしい。そのころには、無数の発信源が敵艦を見て報告してきたため、沖縄諸島からの発見第一報は電信の山に埋もれた。


 これは事態が事態だから仕方がない。惜しいけれど仕方がない。命を懸けた人たちは、その後の展開を知る由もないし、どうやら惜しいとも思っていなかったらしい。かれらはやるべきことをやったのであり、それを見事に完遂したのだから成功者である。例えば日露戦争の関係者の中で、自らの「功績」の偉大さを自分が誰より知っていると純粋に信じていられた軍人がどれだけいたことか。

 彼らは正直といえば正直で、帰路の海はもっと大変だったらしく、仲間の一人はついに力尽きて船底に座り込み、泣いてばかりで最後まで船をこぐことができなかったらしい。他の四人は「優しい連中」で、脱落者の分まで黙って漕いだ。垣花善は「神ぬ、守り貰ば、大丈夫」と言い続け、困ったときも神頼みで生還したのだった。


 そのまま何も求めなかった。功利性のかけらもない。水晶の結晶のように透明で硬質であった。垣花善や与那覇蒲の住居があった松原と、垣花善の友人で同士となった与那覇松の出身地である隣村の久貝は、いま一緒になって久松という地名になっている。先月、宮古島に行ったとき、偶然タクシーの窓から、ここを左に曲がれば「久松」という道路標識が見えた。

 運転手は親切なお方で車を脇に停めてくださり、サトウキビ畑の向こうに沈んでいく夕日の写真を撮り終えるまで待っていてくれた。その方向に久松があり、与那覇湾があり、五人の若者が往復した海が広がっている。のこのこ見物に出かける気分になるような風景ではなかった。それに南国の太陽は、あっと言う間に沈むのですぐ夜になる。釣った魚を喰って泡盛を飲んだ。


 五人の事歴は「宮古島の久松あたりの漁村でうずもれてしまていた」と作者は書く。軍国主義時代の昭和九年、大マスコミに報道され、やっとで大騒ぎになったらしい。海軍省は驚いて、さっそく表彰の手続きをとった。ただし、一人はすでに亡くなっていた。ともあれ、残りの四人は、ようやく固い口を開き、当時のことを語り始めた。

 4人の記憶にある時間関係があいまいになっていることを司馬さんは気にしている。奥浜牛の場面でもそうだった。これらのエピソードは、おそらく作者がバルチック艦隊の航路と進行日時を確定する作業の中で、調査された出来事だったのだろう。でも彼らにとって暦日や曜日が何の役に立とうか。気になる相手はその日の海と空なのだから。


 司馬遼太郎は「ひとびとの跫音」の中で、正岡子規と妹の律、義経と弁慶を引き合いに出して、自分がやらなければどうにもならないという心情について、「献身ほど甘美な生き方を人間はまだみつけ出していないのではないか」と書いている。ここでの甘美というのは自己陶酔的なものではない。お律の看病生活や弁慶の辿った運命を思い起こさなければ勘違いする。
 
 最後のあたりで、例によって現代の(執筆時の)司馬遼太郎が本文中に登場し、いい場面をさらっていく。作者も宮古島に行ったらしい。私たちのタクシー・ドライバーも、宮古の人は「一番、酒を飲むんじゃないか」と言っていた。沖縄でなのか、日本でなのか、世界でなのか、定義は明確でなかったが、これもまたこのままでいい。そのとき思い出した小説の一節を最後に引用する。

 ただ、その前に、引用箇所の風景が目に浮かぶような鮮やかなものであるという印象と共に、安全第一や人命尊重より優先すべきことも時にはあるという奥浜牛や垣花善が考えたその瞬間の個人的な判断基準が、まるで国民のあるべき唯一の姿のように喧伝され、進め一億かくあるべしという、自分以外の人に死を強制するイデオロギーに使われたことを忘れない。



  垣花善はすでに六十になろうとしていた。彼は元来が陽気なたちだったので、島のあちこちから当時の話をしてくれとたのまれるとでかけてゆき、酒のごちそうになってはくりかえし語った。
 「そのため死ぬまで酒ばかり飲んで」
 と、筆者がかつて宮古島に行ったとき、当地の青年が、垣花善の言い伝えを語った。ふつう人間の一生で、他人にくりかえし語るに値する体験というのは、一つあればいいほうだろう。筆者がそれをきいたとき、余生はそれを語るために酒を飲んで暮らしたという垣花善の一生は彼の青春の一体験でするどく結晶しきっているように思えて、はなはだ愉快におぼえた。




(この稿おわり)





アカジンミーバイを吊り上げました。
(2014年9月13日、宮古島の海にて)









久松沖の夕焼け。 
(同日撮影)




 確か中国の古いことわざだったかと思う。「男は腹の中に炎と燃える石を抱えている。それを酒で焼きながら生きてゆくのだ。」














































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