正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

遭難後  (第37回)

 前回の続き。遭難の経緯や事故の詳細は、新田次郎の小説「八甲田山 死の彷徨」と、前回に紹介した丸山泰明「凍える帝国」を是非お読みいただきたい。新田さんは元気象庁の技官で、登山家でもあったから本作品には現実味と迫力がある。ここでは遭難の詳細を論じない。胸が痛む。手っ取り早く概要を知りたいのであれば、関連するウェブ・サイトが山ほどある。

 全てが同じ編制かどうか知らないが、私の理解では当時の陸軍は、小さい方から小隊、中隊、大隊とあって、その上の連隊が戦時の基本単位。しかがって、この雪中行軍も連隊規模で「寒地教育」として企画され、実行された。連隊の上が旅団、その上が平時の地域別の頂点である師団。戦争になると「軍」がその上に置かれる。


 遭難した青森歩兵第五連隊と、全員が無事に帰還した弘前第三十一連隊は、いずれも第四旅団に属し、その頂上に第八師団があった。第八師団長は責任を取るべく進退伺を提出したが、直接の当事者でもなく、明治天皇のご判断により却下され、在任のまま二年後の日露戦争を迎えた。この師団長が立見尚文である。

 その前に遭難の第一報は、青森の憲兵隊から陸軍本部に電報で送信されたそうだ。陸軍はこの一大事につき、軍政の最高責任者である陸軍大臣に速報を上げた。当時の陸相児玉源太郎。いかにも彼らしく矢継早に幾つもの指令を出したらしい。


 上記の本によれば、その指令の中には早くも死者は戦死扱いとし、靖国神社に合祀せよというものも含まれていた由。当時これは大臣の権限で可能な決裁であったそうだが、児玉が陸相を辞任した後で、その後任者が異例の事態ということなのか、閣議に付した。

 閣議決定は児玉の命令を覆すもので、今に至るも遭難した199名は靖国の名簿に記されていない。誰を祭ろうと、もちろん当事者の自由であるが、病死した高杉晋作や斬り殺された坂本龍馬が神様である一方、国軍の指揮命令の混乱が主因となり凍死した兵士に対し、この扱いとは不可思議なことである。


 一般の国民のほうが動きが良い。義援金が全国から集まった。鎮魂の碑も各地に建てられた。遭難した第五連隊は、その軍事施設こそ青森市にあったが、この当時は主に岩手県と、宮城県の北部3郡から徴兵された兵だったそうだ。

 石碑が建てられた地名などを読むのは辛い。東日本大震災の被災地が少なからず出てくるのだ。データが手元にないので、聴いた話の不鮮明な記憶で申し上げるしかないが、太平洋戦争時の徴兵率は東北が一番の高さであったと聞いたことがある。本当ならこの国家の暗部と呼ぶべきだ。


 立見尚文の率いる第八師団は激戦地の黒溝台に、また旭川の第七師団は激戦どころではない旅順総攻撃の真っただ中に派遣され、勝者として名を残す一方、甚大な被害を出した。その話はいずれまた。

 八甲田の救出作戦で救助されたのは17名だったが、間もなく凍傷などで重態だった6名が手当の甲斐なく死に至り、生存者は201名中、11名となった。比較的、軍装に恵まれ焚火でも前列に座れた上位者の生還率が高く、うち3名は間もなく職場復帰した。彼らは黒溝台でも戦い、死者1名、負傷2名。弘前の連隊長も同じ地で戦死している。残る8名の多くは重度の障害や生活難に苦しんだ。


 前出「凍える帝国」によれば、当時の岩手や宮城では、両親の戸籍に残るのは長男だけで、次男三男は独立して別の戸籍を持つという習慣があったそうだ。陸軍の決定により、遺族には弔慰金が支払われたが、制度上では実の親でも戸籍が別では遺族にならず、お金が届かない。

 立見師団長は野戦軍司令官として優れていたのみならず、政治家としても一流であったろう。彼は陸軍本部にこの現地事情を伝え、今回は特例として次男以下の遭難者を出した別戸籍の両親にも弔慰金が受け取ることができるよう陳情し、認められて一時金が出た。


 児玉陸相が出した指令の中には、地元に慰霊碑を建立せよというものもあった。今も八甲田の山腹に立っている。最初に立ったまま凍り付いて発見された生存者、後藤伍長の救出時の姿である。立像は靖国入口の大山益次郎の像と同じ人が作ったそうだ。

 除幕式は日露戦争のため遅延し、戦後の1906年になってようやく現地で執り行われた。何の因果か、児玉源太郎はその式典当日に急死している。伍長の像が抱え持つ銃は、その形状と年代からして以前小欄でも話題にした有坂有章さんが明治30年に開発した三十年式歩兵銃で間違いあるまい。日露戦争当時も制式軍用銃であった。


 司馬さんが八甲田の話題を採択しなかったのは、もしかすると、遭難者の尊い犠牲のおかげで黒溝台に勝てたというような精神主義を嫌ってのことかもしれない。勿論この余りに高い代償を払って得た知見の数々は、満州での陸軍の行軍交戦に大いに役立ったと信じているが、他方で、一部の遺族らが被災直後に、戦死したなら仕方がないが、こんな死に方をするなんてと嘆いたという話も忘れてはならない。

 新田次郎の小説が発表されたのは1971年で、八甲田生還の最後のお一人が亡くなった翌年である。立見尚文が病死したのは、児玉源太郎の死の翌年であった。文庫本第六巻によれば、立見は「おれは黒溝台で死ぬべきところであった」と繰り返し語っていたという。彼の話題はまた別の機会に取り上げる。


 最後に、この時期の正岡子規はもはや一人で身動きすることさえままならない病状で、根岸の里に伏していた。この事件の前年から子規は新聞日本に「墨汁一滴」を連載中で、同時に日記「仰臥漫録」も書いているが、この冬は相当、病気が悪かったようで事件前後の執筆は断絶していた。

 遭難前年の10月で「仰臥漫録」の筆を休め、ようやく翌年3月になって「日記のなき日は病勢つのりし時なり」と記して再開している。「墨汁一滴」は休筆のまま終わり、翌年5月に「病床六尺」が始まっている。つまり、日本で最低気温を記録した冬、子規は口述筆記すらできないほど苦しんでいたということになる。東京も寒さが厳しかっただろう。


(この稿おわり)

 




















十和田湖畔にて  (2008年2月3日撮影)




追記: この記事をアップした当日、映画「八甲田山」で弘前の連隊長を演じた高倉健さんの訃報が届きました。謹んでご冥福をお祈りいたします。



























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