正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

一騎当千  (第39回)

 折角の三連休なのに風邪をひきました。しかし話題は引き続き雪国です。これまで桑名や松山、青森や八甲田などの地名を出してきたが、今回は白河と弘前。これらには共通点がある。いずれも短期間だが、私が行ったことがある場所なのです。

 白河は去年、関の跡を観に行きたくて寄った。時間があったのでバスに乗り、市内の南湖公園という所を歩いた。寒い季節の平日だったから人通りがほとんどなく、かえってそれで落ち着いた静かな印象を得た。

 
 このとき初めて知ったのであるが、小学校で教わった寛政の改革松平定信さんは、ここ白河藩の城主で、南湖公園も彼が造営したのだという。そして彼の息子の代になって、この松平家桑名藩に移った。

 「坂の上の雲」のどこかに立見尚文将軍が東北弁丸出しと書いてあり、それは桑名の殿様が東北から来たので藩の支配者階級は東北の言葉を使っていたらしい。上記のような経緯だったのだ。だが、立見が弘前の第八師団長になったのが東北出身であったからなのかどうかは知らない。


 勤め人だったころ東北の出身者が同僚に何人かいて、特に仲が良かった4人の出身地は、なぜか二人が福島で二人が弘前という配分であった。彼らはみな総じて頑固で、良く働き、親しくなると情誼にあつく、なかなかのユーモリストである。弘前は二十代に二月ごろ行った。町中が前日までに降った雪に埋まり、当日は快晴で積雪が輝き、まさに白銀という形容がぴったりだった。お城も小ぶりだが実に美しかった。

 なお、福島出身者の一人が力説していたのだが、「東北弁」というものは無いのだそうだ。土地土地で言葉はちがうのだから、安直にひっくくるなという。確かに私の場合も出身は静岡だが、両隣の愛知と神奈川とでは言葉が全然違う。関西弁という言葉もあるが、京都と大阪と兵庫の言葉も、京都での学生時代の終わりごろには区別がつくようになったくらい違う。


 八甲田でバスに乗ったとき、地元の人たちの会話が全く理解できないのには心底、驚いた。ずっと昔にも鹿児島で、最近では天草で、同じような経験をしている。ドイツ語と英語とフランス語の違いは、日本の方言相互の違いと比べれは、ずっと小さいと聞いたことがあるが、これはたぶん正しいと思う。なんせ東北や九州では、名詞や動詞まで標準語と異なるから理解できなくて当然である。

 ちなみに、わが静岡の方言は、若い世代はほとんど使わなくなっているくらい標準語に近く、正直にいえば東京言葉を下品にしたような程度の差しかないだろう。徳川の世になって初代の家康が当時、駿府と言われた今の静岡市葵区あたりから、武家はもちろん商人や職人や遊女(これが吉原の原産地である)を連れて行き、廃藩置県の際に遊女は知らんが、最後の慶喜武家や町人を連れて帰って来たのだ。

 二百数十年ほど江戸に転勤になったようなものである。商人は今の日銀や三越があるあたりの日本橋駿府町に住んだ。この地名はもうないが、職人層が移住したという本郷台地の南端にある駿河台の名は今も残っている。このため、落語を聞いていると田舎が懐かしくなる。八っつぁん熊さんの下町言葉が、静岡弁とそっくりなのだ。司馬遼太郎は民主主義を解説するにあたり、将軍も熊公も対等の世の中と言っていたが、けだし至言である。


 小説に戻ろう。第八師団長の立見と第七師団長の大迫の名が初めて出てくるのは、私の記憶だと文庫本では第四巻の「旅順総攻撃」である。嫌な予感のするタイトルであるが、実際、両師団の戦闘は艱難辛苦の極みとなる。最初に、どちらをどこに送るかという相談になった。まず弘前の第八と決まったらしい。理由は分からないが、沙河の会戦中という緊急事態だったから東京や大阪(出発地)に近い第八が選ばれたのかもしれない。

 最大の課題は、遼陽の会戦から激戦の連続となる北方に送るのか、それとも矢のような増援の催促が来ている旅順に派遣するかである。大本営さえ決めかねて、ついに聖断を仰ぐことになったという。明治天皇も難題に限って相談に来られてさぞやご心労の日々であったろう。大日本帝国憲法は十年以上前に施行されている。軍の統帥権という絶大な権限は、背中合わせにとんでもない責任がついて回る。


 ご聖断は「北進せよ」すなわち大山・児玉(私はこれを聞くと、おおさむこさむ、山から小僧が...という歌詞を思い出してしまう)の最前線に送るべしとのことだった。その判断の理由は書かれていない。しかし、これで残った第七師団の命運は、半ば決まったようなものだったろう。あとから出てくるが明治天皇は、第七師団長の大迫さんが大好きだったらしい。お辛い選択であった。

 他方で、立見さんの名と行動ぶりについても、二年前の八甲田遭難の記憶が新しい。皇室の動きは素早く、例えば皇后陛下は凍傷で手足を切断せざるを得なかった生還兵に義肢義足を贈っている。素晴らしい出来栄えだったらしい。さて、追い追い書くが、戦闘開始後、派遣順序が遅い隊や国内の待機組は、戦友が命をかけて戦っているのに安全な生活をしていることに焦りや恥ずかしさを感じていたらしい。天皇陛下は立見の心境を按じたのかもしれない。


 立見尚文は戊申の戦役で「賊軍」扱いされ、戦った相手の山県に疎まれたかもしれず、出世が遅れた。司馬さんは立見将軍のことをこう書いている。「立見は、天才の野戦指揮官で、弘前師団だけでなく、立見個人が戦場にあらわれるということだけで大きな戦力であるといわれていた。」というから凄い。

 三国志演義に「長坂坡」という屈指の名場面がある。単騎敵軍に乗り込んで劉備が戦場に置き忘れた跡継ぎを救出する趙雲と、彼を追ってきた曹操の軍勢をにらみつけて追い払った張飛の活躍ぶりが描かれている。一騎当千とは彼らのことだが、立見の場合は自らの武芸というより、その将器に対する評価だろう。


 老将軍の師団は沙河の会戦末期に満州平野に登場し、児玉源太郎が「聖断ノ明ニ感謝スルトコロナリ」と電報を打つほどの強力な助っ人となった。しかし、そのあとが大変だった。沙河戦がもつれているうち冬が近づき、日露両軍は「冬営」に入った。

 雪に埋もれては露軍も春を待つであろう。と思ったのが甘かった。年が明けた一月、敵は日本の左翼が陣取る黒溝台方面に攻めて来た。現場監督の好古は酒を飲んでいる場合ではなくなってきた。なお、沙河の会戦は1904年10月、同じころロジェストウェンスキーの艦隊がリバウ港を出撃している。



(この稿おわり)





冬の南湖公園  (2013年12月13日撮影)


























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