正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

救援という名の屈辱  (第40回)

 学校で歴史の叙述の仕方には、編年体と列伝体という方法があると教わった。編年体とは時系列、クロノロジーである。「坂の上の雲」もおおむね編年体で、その期間は秋山真之が生まれてから秋山好古が死ぬまでだが、何といってもクライマックスが日露戦争であるから、因果関係で動いていく戦争を描くためには編年体でないと読みにくくてしかたが無い。

 しかし、この感想文は列伝体にした。司馬遷史記タイプである。軍艦列伝まである。編年体には一つの限界があるのだ。その出来事が終わったり、その人が死んだりすると、もう懐古譚くらいでしか登場させることができなくなる。クロノロジカルに「坂の上の雲」の感想文を書いていくと、第三巻の冒頭で子規が死んでしまう。そのあと戦争の話ばかりでは、余りに殺風景ではないか。


 そんな訳でここ数回は、東北の兵と立見尚文がテーマになった。立見師団が本格稼働するのは黒溝台の会戦である。これがまた日露陸軍の命運を分けたと言っても良いほどの結果を招き、それにふさわしい大激戦になった。沙河の末期に到着した弘前の第八師団は、黒溝台戦の当初、総司令部の予備軍という、またしても将棋でいえば手持ちの駒になっていた。

 そこにいきなり出動命令が下ったのは、正面で越冬していると油断していた「露助」の大群が、日本陸軍の一番手薄な左翼に手出しをしてきたからであった。最左翼は馬から降りた好古たち騎兵が、機関銃でこれを防いでいる。児玉ら参謀陣は、最初のうち敵の兵力を過小評価したらしい。このため、まず秋山支隊を救うにあたり、立見師団に一旅団を付けて向かわせた。乃木・伊地知を嗤えないであろう。好古からは敵情報が逐次、届いていたのだから。


 司馬さんの批判する兵力の逐次投入が始まる。しかし敵さんは何と全軍の半分近くの大群で、モスクワから単身赴任(かな)したばかりのグリッペベルグ大将と、世界最強らしい騎士団ミシチェンコのコサック兵であった。黒溝台は好古最大の見せ場面なのだが、それはあとのお楽しみとして、ここでは立見軍を追う。

 立見師団二万の兵は、飛雪の中、二昼夜ぶっ続けで行軍し、一人の落伍者も出さなかったとある。握り飯は氷の塊のようになり、水筒も凍り付いた。八甲田の教訓は活かされなかったのか、それとも更に寒かったのか。また、逆に言えば彼ら以外の動向について司馬さんは沈黙している。野津軍や黒木軍から急きょ引き抜かれた逐次投入軍は、全員無事だったのだろうか。倒れた者は気の毒だが担いでいくわけにはいかない。共倒れになる。それも八甲田の教訓だった。


 そもそも逐次投入は絶対にしてはいけないことなのかどうか、私には分からない。関ヶ原ではどうだっただろう。だいたい主力の秀忠軍が派手に遅刻し、待ちきれなかった親父は跡継ぎを待たずして開戦に踏み切っている。しかも、徳川本隊が動いたのは、日本戦史で屈指の臆病で卑怯なバカもの、小早川秀秋が裏切って、宇喜多と大谷の軍が壊乱して後のことである。

 しかし家康はこのときに自分の陣地を前線に移動させているから、やはり大したものだと思う。黒溝台では総司令部が遠隔操作で、逐次投入された全兵力をまとめて臨時立見軍を編成しようとした。しかし、そう簡単にいかなかった。まず、黒溝台近辺にたどり着く前に、立見師団が三方を敵に囲まれて立ち往生し、しかも間の悪いことに立見中将の耳に、味方の軍が助けに来るという朗報が入ってしまった。


 「これほどの屈辱があるかァ」と雪に埋もれた前線で、立見尚文が怒声を上げた。彼の言い分によると、他の友軍はすでに何回もの会戦を潜り抜け、開戦当初の将校が、ほとんど生き残っていないほどの辛酸を舐めている。他方、わが軍は着いたばかりで戦う前から救援を受けるとは、「何という体たらくであるか」ということらしい。

 周囲も困っただろうが、立見が演台がわりに乗っていた長持も、地団太踏んだ老将軍のために踏み破られてしまった。しかも、援軍の中に立見よりも先任の中将がいて、後輩の下には付けんと建前論を展開して総司令部と揉めたらしい。どっちもどっちだろう。しかし、その後の展開を読むと、救援にかけつけた恥辱軍は、弘前師団を包囲していたロシア軍を放逐し、立見軍が黒溝台に進む道を開いた。現場のほうが、よほど立派であった。


 しかし、このため立見の兵たちは、最強の敵と正面衝突することになる。相手は八個師団、びくともしないという窮状において、「立見尚文はこういう難戦に最適な男だった」そうで、すなわち出した結論が、師団全力で夜襲するというものだった。三昼夜不眠の東北の兵は午前二時ごろから黒溝台に取り付き、立見は前線に馬を飛ばして髭に積もる雪を払いながら兵を進め、翌朝、黒溝台は落ちた。

 この戦闘で立見師団が受けた損害は、戦死1,555人を含む死傷者6,248人で、この「一戦闘で一師団が受けた損傷の多さは、この時期までの世界史上も類がないといわれる」と司馬さんは書く。その弘前師団が埋葬したロシア側の死者だけで7,834を数え、ロシア軍は退却のやむなきに至る。残るは奉天での決戦である。


 どの作品だったか忘れたが、司馬遼太郎はたとえ勝ったとしても、一割の死傷者が出たら大損害と言ってよいと書いていた覚えがある。以前、引用した「凍れる帝国」によれば、乃木希典の旅順攻城戦の損耗率は21.3%で、黒溝台における弘前師団の損耗率は33.2%というからすさまじい。しかも、国黒溝台会戦の戦死者のうち、ちょうど三分の二にあたる66.6%が、弘前第八師団の兵だった。

 この戦闘において、1902年の八甲田で、弘前の歩兵第三十一連隊の雪中行軍を成功に導いた福島大尉も戦死した。映画「八甲田山」で、高倉健が演じていた軍人である。健さんがいなくなったと思ったら、今度は文ちゃんまで逝ってしまった。呉で暴れても、グランパをやっても、蜘蛛爺をやっても、筋の通った男だった。合掌。



(この稿おわり)




蜘蛛爺  (2014年9月10日、宮古島にて撮影)









































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