正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

おらの国の大将  (第45回)

 あともう少し、今東光による山縣礼賛にお付き合いください。「毒舌日本史」の門下生有朋の逸話のすぐあとに、今和尚はこう書いている。「何しろ明治十年の西南戦争のときの陸軍では大将がたった西郷隆盛一人。中将がこの山縣有朋篠原国幹。少将が桐野利秋ほか三四人くらい。(中略)乃木が少佐で、おらの国の一戸兵衛大将は明治十年にゃ伍長だったんだからな」。一戸という名字が如何にも陸奥の北端らしくてよい。

 ここで和尚が「おらの国」と呼んでいるのは、繰り返すが彼の母の実家があった弘前のある青森県のことだ。一戸兵衛は弘前津軽藩士で、維新後に陸軍に入った。明治十年に伍長だったのは若かったから仕方が無くて、ここにも書いているように後に陸軍大将になり、教育総監も務めた明治陸軍を代表する軍人である。偉くなるのも当然というか、文中に出てくる乃木さんの下で大変な苦労をなさった。

 
 一戸兵衛の名は「坂の上の雲」に何回か出てくる。それぞれ似たような文意でわずか数行の登場であるが、司馬遼太郎はこの恐ろしい顔付きの将が好きだったのだろう。出番を全部覚えていないが、最初はたぶん文庫本第四巻の「旅順」の章で、例のアリサカ・ライフル有坂さんとおひげの長岡が二十八サンチ砲を旅順に送る相談をしている場面のすぐ後に出てくる。

 司馬さんは一戸少将(旅順当時)について、「うまれついての将才と軍人としての資質を持っていた」という最大級と呼んでもいい賛辞で紹介している。そして、その一戸が前線で戦いながら、「なぜ軍司令官はこうも状況に適しない、わけのわからない命令ばかりを出すのだろうか」と思ったというと書いている。他の登場場面でも似たような回想をしている。この「軍司令官」とは、もちろん彼の当時の上官、第三軍の軍司令官、乃木希典のことだ。


 本文だけでは足りなかったようで、司馬さんは「あとがき 四」にまで一戸兵衛を出している。彼は旅順戦のころ金沢第九師団の歩兵第六旅団長だったが、「あとがき」では伊知地の後任として第三軍の参謀長になったほどに、勇猛な軍人であるだけではなく優れた戦術感覚の持ち主だったことに触れつつ、惨憺たる失敗に終わった旅順要塞への第一回総攻撃における稀有の「驚嘆すべき勇敢さ」による成果に言及している。

 第四巻の巻末に遼東半島先端部の地図があり、旅順の東側に望台という地名が載っている。その名のとおり旅順市内を望む台地で、第一回の攻撃目標の一つになった。一戸兵衛が率いる歩兵第六旅団は、この望台に達した。当然、敵の猛攻に遭い、一夜守り抜いた後で一旦退き、再度攻撃をというタイミングで第三軍司令部から撤退命令が出た。一戸少将は攻撃の許可を求めたが拒絶された。この日、1904年8月24日は望台のみならず、全軍に撤退命令が出てしまったのである。

 
 今東光がおらの国のと自慢するに至るほど一戸兵衛の名を高らしめたのは、多分この時よりも次の第二回総攻撃のときだろう。二八サンチも無事戦場に届いたのだが、第二回も司馬遼太郎の手厳しい評価によれば「もはや戦争というものではなかった。災害といっていいだろう。」という規模の死傷者を出した。この総攻撃において、一戸旅団は無名の敵拠点を占領し、当所P堡塁と呼ばれたこの陣地は、後に一戸堡塁と改称される。

 ここが最後の第三回総攻撃の拠点の一つになったのだから、その功績大である。第一回の前の前哨戦で、群馬県高崎の歩兵第15連隊が激戦のうえ陥とした山を、第三軍は高崎山と名付けているが、こちらでは個人の名を冠するとは余ほどの出来事だったに違いない。なんせ第二回総攻撃のあった10月は、沙河の会戦も同時進行しているうえに、バルチック艦隊がついに出撃したとの凶報も入った時期で、全軍が戦慄しているような状況だったに違いない。

 乃木と一戸の二人は、第五巻「二〇三高地」の実に印象的な場面に出てくる。一戸さんも乃木将軍の人格には敬意を払っていたに違いない。けれどもそこに行く前に、ちょっと寄り道をしたい。またも、おらの近所の話で恐縮であるが、戦争の話ばかりでは感想文とはいえ書いていて疲れるのです。お詫びといっては何ですが穏やかな写真を満載します。



(この稿おわり)




良い名だ。  (2015年1月8日撮影)










































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