正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

忠魂碑  (第46回)

 以前に小欄で「雨の坂」を話題にしたとき、秋山真之が根岸の子規庵から、亡き友が眠る田端の大龍寺まで、どの道を辿っただろうかという勝手な想像をした。そのときの候補の一つが、上野の双ヶ岡から道灌山を抜けて稜線を進む道である。その高台は山手線や京浜東北線の駅でいうと、日暮里・西日暮里・田端のあたりの沿線南側にある小高い丘の連なりである。

 その記事にも名を出した諏方神社が本日のお題です。うちから歩いて15分。年に一度のお祭りと初詣の時期以外は静かな境内で、散歩にはもってこいのお社である(神社で散歩していいのかどうか、よく知らないが)。長野にある諏訪神社の日暮里支店なのだが、なぜか「すわ」の「わ」の字が、「訪」ではなく言ベンのない「方」の字になっている。ただし、神社内の塔には「諏訪」となっているものもあって、細かいことにはこだわらない宗旨であるらしい。


 その縁起は右の写真をクリックのうえご参照ください。鎌倉時代の初期からあるらしい。子規が大好きだった実朝が生きていたころだ。この辺にしては古い。お祀りしている神様は、タケミナカタノミコト。出雲の国譲りのときに、はるばる諏訪湖まで逃走してきたが観念して降参した。

 豊島氏というのは、今の池袋辺りの豊島区にその名を残す武蔵国土着の平氏の一流である。昔は東京23区の北部広域を豊島と呼んでいたらしい。豊島氏を滅ぼしたのは日暮里駅前に像が立っている太田道灌なんだが、水に流したのかお互い西日暮里で共存している。


  今では日暮里と谷中の鎮守の神様になっている。写真はいずれも石造りの鳥居で、建てられたのが江戸時代の天明年間で、日暮里は当時「新堀」(多分、にいほり)と書いたことがわかる。

 可能性として、子規庵や羽二重団子のそばを流れていた用水路、通称「音無川」が新たに掘られたのにちなんだのかもしれない。境内には高い木々が生い茂り、揺れる木漏れ日が美しい。見晴らしも昔ほどではなかろうが、新幹線を見下ろして良い気分にひたれる。


 もう十年ほど前に引っ越してきて最初にここに来た時に気づいたのが、見上げるばかりの巨大な石碑であった。本日の主人公なのでである。












 その写真は先ず、勿体ぶって裏面からご紹介します。いつ之(これ)を建てたか書いてある。すなわち「昭和三年戊辰十一月建之」とある。最初、私は「戊辰」の二文字に惹かれた。後ほどご案内する石碑の表側には、今日のタイトルの「忠魂碑」という文字が彫られている。

 これはもしかすると戊辰戦争この方、幾つかの大戦争で亡くなった方々のご冥福を祈る謂わば戊辰還暦の碑ではなかろうか。王政復古の大号令が1868年、昭和三年は1928年だ。

 ところがどっこいで、残念ながら思い付きにしては悪くはないが、その上の方に「御大典記念」と右から左へレリーフで刻まれている。昭和三年の御大典とは、昭和天皇の即位の式であり、ここにあるとおり11月に行われている。なぜ昭和三年なのか知らない。大正天皇は12月に亡くなられているので、新帝は一年間の喪に服さねばならないから(「皇室服喪令」にそう書いてあるのだ)、少し時が経ったのか。





 
 では、ようやく表側の写真です。巨大な字で「忠魂碑」とある。「忠魂」とは我が広辞苑第六版によると、「忠義を尽くして死んだ人のたましい」である。「−碑」という用例も載っている。その向かって左側の人名を、これまた拙いことに忘れていたのだ、長いこと。



 「坂の上の雲」も「毒舌日本史」も、二三十年も前に買って何度も読んでいるのに、このありさまである。陸軍大将一戸兵衛と、これほど分かりやすく書いてあるのに。でもなぜ彼が? 

 ネットで「忠魂碑 一戸兵衛」で検索してみると、日本中に建てられていることが分かる。もう一度、裏を見ると「帝国在郷軍人日暮里町分会」となっている。この当時、一戸さんは在郷軍人会の会長だったのだ。さぞやお忙しかったであろう。


 太平洋戦争後にGHQは、全国にある軍国主義的な建築物などを全て撤去させた。ただし、例外的にこの忠魂碑のような不特定多数の無名兵士の魂をまつるものや、神社仏閣等の宗教施設内になるものは難を逃れたらしい。おかげで、ここにご健在なのである。

 でもまだ、東京でなぜこの地が選ばれているのかは不明である。日暮里分会以外にも、たくさんある(あるいは、あった)のかもしれない。ともあれ、会長さんにとって、東京に忠魂碑はなくてはならないだろう。一戸少将たちと共に旅順要塞を攻め落とした第一師団は東京の軍だったのだ。


 最後は余話である。日暮里のある東京都荒川区は、明治大正のころ現在の倍ぐらいの人口があったらしい。理由はこの区が隅田川に面しているため、その水流を利用して製造業などが栄え、大勢の工場労働者が暮らしていたようなのだ。

 今はもう伝統工芸的な職人さんたちや、繊維製品を売る商店街ぐらいが残るのみで大工場はないが、わずかにその名残がある。千住製絨所(せんじゅせいじゅうしょ)と呼ばれた官営の被服工廠のレンガ塀が遺っている。19世紀以降、先の大戦の終わりまで稼働していたというから、日露戦争の軍人さん達の軍服や、陸軍兵が満州の地で夜露をしのいだテントの一部は、きっとここでもつくられていたのだろう。



(この稿おわり)





千住製絨所跡  (2014年2月5日撮影)
















































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