正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

蛤御門  (第57回)

 学生時代を過ごした京都で、その後半は原付を乗り回していたのだが、ある日スピード違反でパトカーに捕まった。速度がオーバーしていたのは知っていたので、大人しく連行されパトカーの後部座席で切符をもらった。大した額ではなかったので交通違反そのものは簡単な注意で終わったのだが、「それより場所をわきまえんか」と警察官のお叱りを受けてしまった。

 場所は京都御所の前で、この辺は女子大が多く、下校時間に重なったようで行きかう娘さんたちのさらし者のようになっている。それはともかく京都府警の指摘もごもっともで、御所の門前で道路交通法違反をやらかしたからだ。門の名は小学生のころから知っていた。蛤御門である。


 蛤御門は正式な名前ではない。これは立派なあだ名で、普段は禁門(御所の正式な御門)だから開閉されないのだが、徳川時代に大火があった際に「その手は桑名の焼きハマグリ」の殻のように避難のため開けたので、この名が付いたという。洒落ていていい。さすが千年の都。もっとも、最近は「禁門の変」と真面目に呼ぶようになった。

 これは、しかし正確でもある。このときの戦闘は蛤御門だけではなく、他の禁門の周辺でも行われたからだ。歴史上の出来事に蛤の名が残ったのは、関ヶ原や天王山と同様、ここが激戦地であり、また勝敗を決した戦場であったからだ。時は元治元年。幕末の前半が黒船に始まる嘉永安政、万延の尊皇攘夷と保守反動の時期ならば、後半は文久、元治、慶応の公武合体から大政奉還へと以降していく大変動の時期だろう。


 前年の文久三年八月十八日のクーデターにより、長州藩および改革派の公家さんは、会津・薩摩の手により京を放逐された。これを受けて怒りの長州の反撃が、翌年の蛤御門の変である。御所の警備総責任者は当時まだ一橋と名乗っていた会津慶喜公、戦闘指揮は薩摩の西郷隆盛がとった。長州は総大将の来島又兵衛が蛤御門で川路に狙撃され、重傷を追って自刃。遅れて駆け付けた久坂玄瑞を失うという痛恨の敗退であった。

 以上の様子は「竜馬がゆく」の文庫本第五巻「流燈」の章に出てくる。私はこの来島又兵衛というお侍がとても好きで、革命家というよりも元亀天正のころの一国一城の主がお似合いの猛者である。高杉もそのお取扱いに閉口したという来島のじいさんは、蛤御門で会津兵を圧倒したが、別の門を突破した薩摩の軍勢が加勢にきて挟み撃ちになった。


 しかし、「馬上の来島は屈せず、よく遊ぶ悪童のような元気さ」で、「薩賊を討て。みなごろしにせい。」と銃隊を叱咤したが、薩軍は大砲を転がしてきた。このときの薩摩の若侍達の中に、黒木為腊がおり、野津道貫がいる。後に二人は日露戦争の軍司令官になったとの記述があるから、すでに「竜馬がゆく」の時点で、司馬遼太郎日露戦争についての相応の関心と知識があったことが分かる。

 また、更にその中には、この当時、「竜馬の神戸塾に、薩摩藩からの委託生として入っていた」という伊東祐亨(いとう すけゆき)もいたそうだ。竜馬の神戸塾とは、近代日本海軍の創始者と言うべき勝海舟が開講した神戸海軍操練所のことで、坂本龍馬が塾頭を務めたり、この伊東や日清戦争時に外務大臣だった元海兵隊陸奥宗光が勉強したりしたところだ。


 私が知る限り、司馬作品で伊東の名が出てくるのは、上記が最初である。蛤御門のころ弱冠二十歳前後の若者であった。そのまま明治維新後も海軍に残った。「坂の上の雲」では文庫本第一巻の最終章「軍艦」に出てくる。この章は以前、秋山真之が後に三笠で上司になる加藤友三郎とともに明治二十六年、当時の最新鋭の軍艦「吉野」を日本まで回航したエピソードのところで触れた。

 小説ではそのすぐあとの箇所に、時間的には「吉野」の前となるが、早くも明治十九年に「浪速」が初めて日本海軍の手により、英国から本邦へ回航された。この時の回航の責任者である委員長が伊祐資亨で、委員の中に山本権兵衛がいたとのことだ。

 権兵衛さんは後に海軍の老将軍たちを時代遅れということで「大掃除」したらしいが、この回航時に人物の見極めがあったのか、伊東はその対象にならず古株として残った。彼が引っ張って来たしてきた「浪速」には、これも残った東郷平八郎が艦長として乗り込み、開戦早々いきなり火花を散らすことになる。


 日清戦争は、この伊東が初代の連合艦隊司令長官に任じられ、また、大本営の作戦責任者である海軍の軍令部長は、例の樺山資紀が任命された。「坂の上の雲」文庫本第二巻の「日清戦争」によれば、伊東は「自重家のかたむき」があったため、反対側に傾いている樺山さんで釣合いを取ろうとしたらしい。こういう人事は現代の企業でも良くあることである。

 もっとも、本件の場合、お釣りが来た。樺山軍令部長は着任すると早速、積極策を提案してきた。日清戦争の最初のうち、海軍は陸軍の輸送を主な任務としていた。それが終わりつつあるころになって、「そろそろ主力決戦」と言い出したらしい。

 かくて海軍は黄海での決戦に向けた準備に入る。蛤御門から、ちょうど三十年の歳月が経っていた。我が人生に照らし合わせても、あっという間の時である。早くも明治日本は近代海戦の表舞台に立つことになった。そして、樺山部長は作戦だけで黙っているお人ではなかった。




(この稿おわり)




この季節、拙宅のご近所はバラの花盛りです。
(2015年5月8日)























































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