正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

まだ沈まずや定遠は  (第61回)

 小松左京の金字塔的名作SF小説、「日本沈没」の終盤。沈みゆく列島から離脱する船の上で、主要登場人物の一人、中田が「まだ沈まずや定遠は」と口ずさむ場面がある。これを初めて読んだのは中学の一年生か二年生のころで、全く意味が分からず読み飛ばした。二十代で「坂の上の雲」を読んだときにも、何も気づかなかった。

 両作品に出てくる「定遠」が、ようやくこの不調な脳ミソの中で結びついたのは、その三十年くらい後のことである。前回、話題にした軍歌「勇敢なる水兵」の歌詞は、冒頭「鏡のごとき黄海は」で始まり、最後は「まだ沈まずや定遠は」の会話で終わる。清国海軍の旗艦「定遠」は、黄海海戦で沈みはしなかったが被弾し、後に悲劇の提督丁汝昌と運命を共にする。小松さんは田所博士の姿をこの海将と重ね合わせていたに違いない。


 黄海海戦時の連合艦隊の陣形は、日本海海戦と似て縦一列の「単縦陣」であることが、本文からも文庫本第二巻の付録図でも分かるが、ただし旗艦の「松島」は後年の「三笠」と異なり全体の先陣ではなく、第一遊撃隊の後ろを進む本隊の先頭である。相手の清国は、陸戦でいう鶴翼のような陣形であった。企図した陣形というより、結果的にそういう配置になったらしい。つまり下手だった。

 第一遊撃隊の戦闘艦「吉野」が、第一巻の最終章「軍艦」に出て来たことは既にふれた。日本からイギリスにこの舟を引き取りにきた真之たちに、巡航のリーダーである回航委員長の河原要一大佐は、当時世界最高速の新品軍艦「吉野」を、「小さいが、定遠鎮遠ごろしの猟犬だ」と自慢している。日清戦争の直前に日本に着いた。同じころフランスを出た「畝傍」は、現時点でまだ日本に到着しておらず、行方不明のままになっている。


 その両巨艦が正面からせまりくる黄海海上で、飛来する敵砲弾をかいくぐって接近戦に持ち込んだ猟犬「吉野」が、近代日本海軍のファンファーレともいうべき砲撃を始めた。艦長はもちろん河原さんである。続く本隊は旗艦の「松島」に加え、「厳島」「橋立」とくれば海に浮かぶ日本三景。最初に砲弾をくらったのは「松島」、撃ったのが「鎮遠」だった。清国も幸先だけは良かった。

 詳しい戦闘描写は引用しない。清国の軍艦は四隻が沈み、一隻が擱座した。日本側は例の「西京丸」や「赤城」も含め、十二隻がそのまま残った。続く威海衛でも、一隻も沈まなかった。大きさよりも速さが勝つこともあると世界は知った。「定遠」は自沈し、「鎮遠」は日本の戦利品になってしまった。終わり良ければ総て良し。後は勝って兜の緒を締めるかどうか。


 この十二隻の船は十年後の日露戦争時も、旧式でありながら健在で、全艦が何等かの形で参戦している。うち七隻は日本海海戦連合艦隊のリストに載っている。他の小船も防護や索敵に活躍した。物持ちが良いとも言えるが、巨大な敵と戦うために大事に保管したものだろう。ただし「吉野」は、「初瀬」「八島」の触雷沈没と同じ日の別海域で、新参の「日進」と衝突事故を起こし、艦長以下が逃げる間もなく沈んでしまった。余りに気の毒である。

 日本三景と「鎮遠」は日本海海戦時、片岡七郎中将が司令官を務める第三艦隊に属し、古い船の集まりなので戦闘の中核部隊ではなく、主に索敵と引率であった。すなわち第八巻「沖ノ島」の章で参謀の百武少佐が、「第三艦隊は、ロジェストウェンスキー提督を案内して東郷長官とひきあわせるのが主な役目だった」と述べている。ご案内係であった。対馬で待機し、やがて「信濃丸」や「和泉」、駆逐艦隊からリレーの襷を引き継いだ。


 第八巻「運命の海」には、ロジェストウェンスキーが望遠鏡で「鎮遠」を発見する場面も出てくる。しかし、彼は「捨てておけ」と命じたため、片岡艦隊は「ひきあわせる」仕事を全うしたあとで、一旦、会戦上の北側に抜けている。このあとの連合艦隊の役割分担と連携プレーは見事なものだ。

 第一艦隊の戦艦は主に敵の主力・第二艦隊を担当し、上村さんの第二艦隊ほか巡洋艦はネボガドフの第三艦隊を攻め、片岡第三艦隊はロシアの巡洋艦や特務船などの小型艦を狙って忙しくなった。真っ先に「信濃丸」に見つかってしまった病院船「アリョール」を拿捕した。「ルース」が沈み、「カムチャッカ」が壊れた。何せ「撃滅」が大目的であるから、小さい相手も容赦ない。勇敢なる水兵の仇は取ったか。


 日清戦争軍令部長および臨時の水兵を務めた樺山資紀は、戦後、第一線を退いた模様である。この戦争のことは、孫娘の正子にも何も語らなかったらしい。同じく連合艦隊司令長官を務めた伊東祐亨は、日露戦争では樺山のはるか後任の軍令部長となって大本営に詰めることになった。

 1905年5月27日の夜、陸海軍の首脳がしびれを切らしながら待っていた戦報が、ようやく現長官の東郷さんから元長官の伊東さんの手元に届いた。「連合艦隊ハ、沖ノ島付近ニテ露国艦隊ヲ邀撃シ之ヲ大破セリ」。日露戦争は、日清戦争が終わった直後から始まり十年かかったと秋山真之は後日、語っている。山本七平さんの指摘するとおり、勝っても負けても日本の戦争は長い。みくにをおもうくにたみの被害は常に甚大である。 





(この稿おわり)






不忍池の蓮の若葉  (2015年5月24日撮影)






 まだ沈まずや定遠は 
 この言の葉は短きも 
 皇国を思う国民の 
 心に長くしるされん

      「勇敢なる水兵」


















































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