正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

春や昔  (第62回)

 ずっと戦争のことばかり書いていたので何だか疲れてきた。おまけに実世界もキナ臭くなってきて、別のブログでも怒り心頭に発し、どうやら神経がささくれ立っているらしい。ということで暫く子規や文学のことを話題にしようかと思う。今回のタイトルは、もちろん「坂の上の雲」の第一章。最終章から書き始めて、ようやく今ごろプロローグだ。まことに小さな国が、開花期を迎えようとしている。

 物語は伊予松山から始まる。松山には一度だけ行ったことがある。30年余り前のことで、大学四年生の夏休みだった。一週間の四国一人旅。本来、就職活動で慌てるべき時期なのだが、当時は現代ほど慌ただしくなく、更に私はのんびりしていた。反動でこの旅行後に酷い目に遭ったが、まあいい。旅行当時、司馬遼太郎の小説は「竜馬が行く」しか読んでいなかったはずだ。


 だから、子規と法隆寺の句は学校で習っていたが、彼の出身地が松山とは知らなんだ。秋山兄弟は名前すら知らなかった。そんな調子だから松山城三津浜も、彼らにちなむ旧跡も訪れていない。

 恥ずかしながら、小説の冒頭に出てくる松山城も見た記憶が無い。路面電車に乗りました。国民宿舎に泊まり、道後温泉につかったら気分が豪勢になり、寿司を奮発した。道後の温泉は、お湯に何とも言えない肌触りがあって感動的だったのだ。本館で入湯した。ご存じない方は千と千尋の湯婆婆の銭湯をイメージされたし。

 愛媛と言えば、ポン・ジュースである。うちの田舎の静岡もミカンの産地だが、日本一をその名に冠するポン・ジュースに匹敵する飲料はない。大学生活を一人暮らしで始めた頃に知り、当時もよく飲んだし、今も毎朝、飲んでいる。一時期、松山の駅などで蛇口から出てくるこのジュースを無料で飲めたらしいが今はどうだろうか。

 
 松山城は文庫本第二巻の「渡米」にエピソードが出てくる賤ヶ岳七本槍加藤嘉明が、秀吉から家康の時代にかけて封ぜられている。松山の命名も城の建築も彼の手による。関ヶ原のとき村上水軍と戦っているので、もしかしたら秋山兄弟のご先祖と一戦交えたかもしれない。彼のあと私の好きな蒲生氏郷の子孫が修めたが改易。その後は松平家が治めたため、幕末維新で賊軍になってしまい主人公たちの苦労が始まる。

 章題は言うまでもなく、松山藩十五万石をうたった正岡子規の「春や昔十五万石の城下哉」に由来する。上も中も字余りなのだが、それを感じさせないうららかさだ。「哉」の字は松山駅前の石碑の写真をみると漢字だが、小説では「かな」と平仮名になっている。子規が書き残したものがどちらなのか知らない。


 この小説は後半が大戦争の話題ばかりになるのだが、冒頭は文中に出てくるように土地柄どおりで「駘蕩」としている。ストーリーは信さんの誕生から始まるのだが、その前に子規の句を置いたのは、彼の存在なくしてこの小説が書かれることは無かったであろう作者の事情をよく表している。

 それどころか「あとがき」その他、多くの子規関連の随筆などの内容と熱の入れ方からして、小説家・司馬遼太郎も子規の散文なくしては誕生しなかったかもしれない。また、子規の散文は親友漱石との膨大な文通の影響を受けているはずで、このあたりの顔ぶれが現代日本の文章表現のかなりの部分において基礎工事をしてくれたはずである。


 春や昔の句は小説にも紹介されているように明治二十八年(1895年)、故郷の松山でつくられた。このころ、すなわち子規二十代後半の1894年から95年にかけては、日清戦争の戦時下であるとともに、子規個人にとっても事の多い時期であった。

 94年に子規は根岸で転居して今の子規庵にうつり、中村不拙と出会って写生に関心を持つ。すでに数年前、喀血して子規と名乗っているが、まだ元気が充分に残っていて、従軍記者になりたいと申し出て陸社長を困らせた。


 時代に流れを年表風に確かめてみると、黄海海戦は1894年の9月である。翌10月に好古が緑馬と一緒に閲兵を受けて遼東半島に渡った。11月には旅順が一日で落ちた。これが余りに順調だったも後の苦労の一因であろう。大山も乃木も野津も伊地知もいた。

 年が明けて1月に子規は従軍を申請しているのだが、2月には威海衛で鈴木貫太郎らの水雷艇が魚雷を「定遠」に撃ちこみ、すでに和平交渉が始まっている。子規に渡航の許可が下りたのは3月。ただし、大本営のある広島で足止めをくらい、実際に海を渡ったのは4月だった。

 この間に、子規が松山を訪れていることが「坂の上の雲」には書かれていない。このため「春や昔...」の句は、従軍後に血を吐いて須磨で療養、さらに松山で一休みした時期と書いてあるものもあるが間違い。戻ってきたときは夏なのだ。それに句の調べも病人のそれとは言い難い。もっとも、「柿くへば...」はこのあとの作品だが。食欲、おそるべし。

 
 子規が帰国した5月は、まだ陸軍が戦場に残っていて、彼は鴎外と会った。ただし、好古とはちょうどすれ違いだったと小説に出てくる。帰省中には漱石の下宿で居候となり、後に「ホトトギス」を刊行する後輩の柳沢極堂らと句会を開いた。極堂さんは子規の幼馴染で、升さんは小学校のころ、まだ「まげ」を結っていたと語った話も小説に収録されている。

 漱石に暇乞いをした子規は奈良旅行などを経て、10月に東京に戻る。翌96年に子規庵で句会を始め、「松蘿玉液」を連載開始、本格的な文筆活動に入る。それに応じるかのように、体調は逆に急速に悪化し始めて歩くのも困難になってきた。病気の養生は、罹ったばかりと、治りかけの時期が肝心であるという。子規は余りに無理をし過ぎたな。だが私の知る限り、それを酷く後悔した気配が無い。




(この稿おわり)





 山吹や小鮒入れたる桶に散る  子規

 (2015年5月24日、根岸にて撮影)










































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