正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

信さんの歩いた道  (第73回)

 三人の主人公のうちで、これまで、このブログに一番登場回数が少なかったのは多分、秋山好古だと思う。これは彼が気に入らないからではなくて、その逆であり、お楽しみは後にとっておいてあるのです。司馬遼太郎も、その筆致からして秋山兄弟のうちでは兄貴のほうが好きであるのは間違いないと思う。

 歴史は地理と共に語らなければ、単なる年表と変わりはしないというのが私の信条で、この点、すぐそばに住んでいた子規の話題になると、土地鑑もあるし写真も撮れるので書いていて楽しい。だが、好古が活躍した満州は行ったことがないし、これからも機会があるかどうか。そんな訳で今回は、東京に出てきてからの彼の物語を、少し雑談風にします。

 
 太田道灌が築いたころの江戸城は、すぐ目の前まで海が迫っていた丘の上に建てられた。板葺きの小さな砦のようなものだったと聞いたことがある。海辺に築城したのは、房総半島から湾を渡って攻めてくる敵に備えてのものだったらしい。それを家康が引継ぎ、更に皇室が跡を継いだ。

 城は見晴らしも大事だろうが、偉い人が高いところに住むのは世界中で当たり前のことらしい。低いところは洪水になったり、そうでなくても普段から湿気があり、健康に良くない。野生動物がわざわざ水場に毎日通うのは、雑菌が多いので住めないかららしい。皇居が高いところにあるのは、周囲を歩けばすぐわかる。


 徳川時代の絵地図を見ると、江戸城の周辺は徳川家の有力家臣の屋敷が取り囲んでいる。後の士官級にあたると言えばよかろうか、旗本は後述するが今の麹町などに住んでいた。当時の番町という名は今でも行政区分の名前に残っているし、皿屋敷で名高い。

 身分の低い歩兵であるお徒士は、上野御徒町あたりに住んでいたのだろう。それでも、上野の山があるのだから、周囲より少しは標高がある。秋山家が徒士の家の出であったことは、「坂の上の雲」の冒頭に出てくる。馬回り役だった正岡の家より身分が低い。歩兵の家系から、騎兵の父が出たのだな。

 信さんはお金がなくて、最後には陸軍の学校に入ることになった。その前に小学校の先生になっているが、軍の学校は生活費も出してくれるのである。私の実家も貧しかったから、一時期、学費を払うどころか学生に金が出る(という噂で、本当がどうか知らないが)、防大に進学しようかと考えたことがある。

 
 さて。左の写真は、東京都新宿区市ヶ谷の路上の道案内図である。このあたりは、昔も今も仕事でよく歩き回る。上が北。真ん中を東西に横断しているのが外堀。左上に靖国神社がある。上の真ん中あたりに、東郷元帥記念公園がある。アドミラル・トーゴーの自宅跡。

 混んでいる歩道で無造作に撮ったため、見づらくて申し訳ない。ほぼ中央に市ヶ谷橋がある。外堀の北側が千代田区、南側が新宿区。右下のほうに新宿区と書いてある辺りは、建物の名前などがほとんど入っていない。何もないわけではない。書きたくないらしい。防衛省自衛隊がある。ごつい鉄塔が立っているので、ものすごく目立つのに。


 市ヶ谷橋の左下に、赤い長方形に白抜きで「現在地」と書いてある地点は、この写真を撮った私がウロウロしていた場所。そのすぐ右に市ヶ谷の急坂を渡る小道があり、「左内坂」とある。この坂の名が第一章「春や昔」に出てくる。信さんは、この坂を登って試験を受けに行ったのだ。左内坂の写真です。

 私もかつての職場の施設がこの坂の上の地にあったので、何度も上り下りしたが、暑い季節は釜茹でになった気分になるくらい急で長い。信さんも受験生のときは徒歩であった。だが、後にこの坂を馬に乗って通勤したはずである。一朶の白い雲が見えたこともあったろう。

 
 弟の真之が兄と升さんのあとを追いかけて東京に来たとき、最初に兄の下宿で同居している。章でいうと、その名も「真之」に、兄の下宿先が番町の一画、麹町にある旧旗本の佐久間家であったとの記載がある。後に信さんが結婚する多美さんが、ここの娘であった。

 世が世なら、相手は将軍直参のお家柄。こちらは地方公務員で陪臣(ばいしん・またもの)と呼ばれていた遥かに格下の家であったが、すでに建て前上は四民平等。それをいいことに信さんは多美お嬢様を「狆」と呼んでしまい、口をきいてもらえなくなった。最近あまり見ない犬コロで、まあ愛嬌があるっちゃあるが、妙齢の女性につけるあだ名ではあるまい。


 小説によると佐久間屋敷は市ヶ谷御門(上の地図にも御門跡がある)のそばだと書いてある。我が家には江戸時代の地図の写真集があり、立派な家屋や神社仏閣などは、名前入りである。「佐久間」という大き目の屋敷が、確かにJR市ヶ谷駅のすぐそばにある。最近このあたりで忘年会をやりました。

 到着した真之が佐久間家の門前に出てみると、「市ヶ谷御門のほうから、騎馬の将校が一騎やってくる」のが見えた。従卒がいる。兄さんは入学試験の作文で、飛鳥山の意味を取り違えたにも拘わらず、順調にご出世の様子であった。


 ちなみに、この飛鳥山の名は最後の章「雨の坂」にも出てくると前に書いたが、もう一箇所ある。文庫本第一巻の「海軍兵学校」で、ここに進学した真之たちはマラソンの授業で、兵学校のある築地から、飛鳥山まで走った。

 どこをどう通ったのか知らないが、築地はけっこう日本橋に近いので、中山道(今の国道17号線)を北上し、東京大学の真ん前にある本郷追分というY字路から、将軍御成道(日光詣でのためのバイパスみたいなものです)を進めば飛鳥山のある王子に出る。

 明治二十一年のマラソン大会(個人競技ではなく、分隊単位で得点を争ったらしい)において、真之のチームは第二位であった。第一位は一学年上で、「幽霊が指揮している」かのような青い顔の先輩が、のちに切断を要するという診断が出たほどの骨髄炎なのに疾走したのであった。このやせ我慢男は、真之が初めて見るタケニイサン、広瀬武夫だった。


 この佐久間家の同居時代、秋山兄弟は一つの茶碗で晩飯をとっていたらしい。兄が茶碗酒を飲み、空いたら弟が飯を食い、というのを繰り返す。相手が使っている間は、眺めながら待つほかあるまい。いくらなんでも馬上通勤に従卒付きの身上になって、もう一つの茶碗が買えないということはなかろう。

 信さんとしては、親代わりを任じている淳が、いつまでもガキ大将気分ではいかんのじゃということだろう。これも食育というのであろうか。司馬さんは「山賊のようであった」と表現している。ロシア軍はこの兄弟に、してやられたのだな。

 のちに淳さんは、山賊屋敷を出て獺祭書屋に引っ越した。今度の同居人は子規である。秋山真之は作者の評によれば「変物」であったが、彼は人に恵まれた。父母はもちろん、この稿に出てくる人物だけでも兄さん、升さん、広瀬、東郷長官と大勢の人たちに支えられて歩んだ人生だった。今わの際に、彼もそれを認めている。みなさんいろいろお世話になりました。これから独りでゆきますから。



(この稿おわり)





市ヶ谷橋前の交差点  (2015年11月3日撮影)












































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