正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

双眼鏡 その名はツァイス  (第74回)

 1905年5月27日、夜の日本海。当日、波高くして戦場に殆ど出られなかった駆逐艦水雷艇は、午後の大海戦で味方の連合艦隊が蹴散らかした敵艦を探し求めて、暗闇の海へと出撃した。大雑把な理解しか持っていないが、駆逐艦とは魚雷により、水雷艇とは機雷によって、大きな相手を沈める小型の軍艦。

 真之らが立案し東郷が採択した日本海海戦の戦略は、昼間に大型艦同士の砲撃戦で相手を圧倒し、ただし全滅させるという重たい目標を掲げているから、夜間に小型船で落ち武者狩りもしなければならない。


 ようやく、その出番が来た駆逐艦水雷艇が、よくその勤めを果たしたということは最終的な戦果をみれば明らかである。しかし、中には不調者もいるもので、駆逐艦の漣(さざなみ)は戦闘中に闇の中で同行の僚船とはぐれてしまい、しかも迷子となってさまよっているうちに船が故障してしまった。

 ちなみに、駆逐艦は英語だと「デストロイヤー」というプロレスのような名称の船種だが、日露戦争時の駆逐艦には前にも書いた覚えがあるが、万葉集に出てきそうな古式ゆかしい気象の用語が命名されている。


 漣は対馬列島の真北にある蔚山の港で、艦体の修理をすることになった。同じ事情で、第五艦隊の陽炎(かげろう)も入港してきた。司馬さんは「ボンクラ同士が吹き寄せられたような感じで」と同情半分、面白半分といった様子で書いている。

 しかし、夜明けとともに修理は無事終わり、吹き溜まり組は戦意を取り戻した。艦隊が違うが臨時編成のチームを組んで出陣である。職位が上である漣の相羽恒三少佐が艦隊長となった。しかし、相変わらず武運に恵まれず昼を過ぎても敵の船が見当たらない。でも、東郷司令長官からは「努力せよ」と訓示されている。


 午後の二時過ぎ、努力の成果品が海上を漂っているのを、漣の塚本克熊という広島出身の若い少尉が発見した。塚本さんはマスさんという婚約者を国に残しての出陣であった。塚本少尉は画才があって、本人はつい軍隊に迷い込んでしまったそうだが、ご長男は画家になられた。親子そろって拙宅そばの東京美術大学(いまの東京芸大)のご卒業である。

 塚本少尉は双眼鏡を持っていた。彼はかねてこのツァイス社の双眼鏡が高倍率であり、しかしまだ日本では東郷さんしか持っていないことも知っていた。そこに日露戦争では無数に降り下った天啓が塚本さんの手にも入り、彼が載っていた船が触雷して沈没したため(船の運は悪いな)、一時期、三笠に収容されていたことがある。


 このとき、塚本さんは畏れ多くも同船の連合艦隊司令長官に頼み込んで、双眼鏡を見せてもらったと文庫本第八巻の「鬱陵島」にある。ロジェストウェンスキーは望遠鏡で水兵をぶん殴って廻り、修理や調達に部下が苦労したという逸話が紹介されているが、幸い東郷さんは同志とみなしてくれたようで愛用品を貸してくれた。

 塚本さんが覗くと、思っていたより遥かに素晴らしい性能であった。そこで銀座の玉屋という測量機器のお店に注文した。そういえば昔、レンズのことを玉と呼んだなあ。玉屋は横浜にあるコロン商会(たぶんケルンだろう)の「サブ・エージェント」だった由。ツァイスの双眼鏡は舶来品だったのだ。


 これが驚いたことに(ドイツはロシアの同盟国である)、対馬駆逐艦基地に郵送されてきた。「未亡人のマスさん」によれば、値段は350円で、当時の中尉の年収ぐらいの高値であったという。司馬さんが取材したとき、マスさんはご存命で86歳だった。

 未亡人というのは確かに字面も悪くて、今や差別用語になってしまっている。ただし、うちの実家のように木造平屋建ての借家暮らしのかみさんが亭主に先立たれても、未亡人とは呼ばなかったと思う。上流階級の方々専用だったはずだ。

 この双眼鏡で塚本少尉は、二艘の駆逐艦を発見した。上司の相羽艦長にも確認してもらった。見つかってしまったロシアの駆逐艦は、ベドーウィとグローズヌイであった。しかし近寄っても、なぜか戦意が全くなく、英語のできる塚本少尉が乗り込んだところ、海洋上で想定外の拾得物を得た。ベドーウィではロジェストウェンスキーが寝込んでいたのだ。


 かつて歴史が好きな人は、往々にして「歴史に if は禁物であるが」と前置きして、そのあと延々と if を語っていたものだ。私は面倒だから前置きもしない。司馬遼太郎は偉い人なので前置きをしなくても許される。「もし塚本のプリズム双眼鏡がなかったとすれば敗残の提督はうまくウラジオストックに逃げることができたであろう」と書いてある。

 もっとも、旗艦スワロフから逃げ出したあとの敗残提督は、四隻あった近くの船の中から自分でベドーウィを選び、最も快速だったはずの巡洋艦を選ばなかった。自ら播いた種である。この巡洋艦ドミトリー・ドンスコイはお荷物を背負わずに済み、最後まで戦っている。


 塚本克熊の名は、もう一箇所、同じく第八巻の「運命の海」において、既に出ている。片平三平氏の著書「測量機の発展史」が引用されており、明治三十七年二月、日露開戦のときに初めて兵器としてカール・ツァイス製のプリズム双眼鏡が採用された由。司馬さんによると、この新兵器を持っていたのは東郷平八郎と塚本克熊の二人だけだったとのことだ。でも充分な戦力として役に立った。

 この著者の片平さんも、司馬さんが取材したときにご存命で85歳、「かくしゃくとしておられる」男であった。片平さんは「小僧」として銀座の玉屋で働き始めた。玉屋で寝起きしていたというから住み込みの労働者である。「東郷さんのお屋敷まであの双眼鏡を届けに行ったのは私でした」という貴重な証言が収録されている。あの東郷公園のところまで行きなすったのだろうか。

 
 小欄の前回でアップした市ヶ谷周辺の地図は、左上の靖国神社から右下の防衛省自衛隊まで、靖国通りが走っている。市ヶ谷橋の上の道も、この道路なのだ。地図の外側になるが、もう少し西に進むと防衛省の正面玄関があり、このあたりでボンヤリしていると守衛さんに睨まれる。

 このすぐ近くに、カールツァイス株式会社がある。昭和36年設立とあるから、私の生まれた次の年に日本の現地法人をつくったらしい。さすが長い付き合いだけあって国防当局のご近所にあるのだ。そして、東郷さんが塚本さんに貸した本物は、確か三笠に展示されていたはずだ。今でもあるだろうか。東郷さんがこれを買ったとき、今の私と同じ55歳だったはずである。




(この稿おわり)





夜明け  (2015年11月11日撮影)












































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