正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

オイ加藤  (第78回)

 ようやく「肉弾」の中身に入る。今回に限らず引用の際、漢字の字体や仮名遣いは現代のものとします。変換が大変なのだ。そもそも書名からして、本当は「弾」ではなく「彈」という旧字体だし、「肉」の古い表記に至っては、私のIMEパッドでは見つからない。

 さて、本文の章は「第一」、「第二」と続いて行く。第一の章名は「戦友の血塊」である。いきなり血なまぐさい感じだが、この「血塊」は後段において、比喩として使われていることが分かる。遼東半島の大地のことなのだ。

 本文は「日露戦争!」と始まる。その段落に、将卒が凱旋したと書かれているので、終戦後にようやく書き始めたことが分かる。もしも勝てなかったら書けなかっただろうと思う。この本は全編において、戦友の勇ましさと戦争の悲惨さを描いているのだ。負けたとき、この両方を同時に書くのは難しい。実際、今の日本人はこのどちらかを主張している。


 最初の頁に「日清戦役の終期に、こういう話があった。」という前置きで記されている逸話が、今回のタイトルで始まる。それは戦地から凱旋しようとしていた或る部隊が、戦没将卒の墓前に最後の別れをせんとしたとき、一兵卒が故戦友の墓標を撫でながら涙を流して語った言葉だったと紹介されている。そのまま引用します。

 「オイ加藤、おらモウ国へ帰るのだぞ。風に吹かれ、雨に打たれて、ともども弾の降る中で働いたお前が戦死してくれて、おれがスゴスゴこの面さげて国へ帰るのは、面目ないよ。お前を一人ここへ残して帰るのは残念だ...だが喜んでくれ、オイ加藤、遼東半島は日本のものになったのだぞ...お前の骨はやはり日本の土地に埋まっているのだぞ。安心してくれ、イイカ加藤...おらモウ帰るぞ。」


 一兵卒はかくして「亡友の忠魂を慰め」、水筒の水を手向けて去ったという。著者は「不幸負傷のため、半途にして戦列を退いた」ものの、このたびの凱旋を喜ぶとともに、戦友の面影が悲しく眼に映り、悲喜こもごも胸に溢れると書いている。

 日清戦争は1894年、日露戦争は1904年に開戦した。わずか10年しか経っていない。日本は先進大国と大戦争するような金も軍隊組織も武器も殆ど無かった。しかし、その10年の間に、しかも日清戦争が終息した直後と呼んでよい段階で、三国干渉という名の侵略を受けた。

 このうちドイツとフランスが勝ち馬に乗った組だが、首謀者はロシアで、しっかり遼東半島に居座った。しかも単なる植民地ではなかった。ここに大要塞が構築されたことを、日本人は流血で知ることになる。


 臥薪嘗胆という言葉が、「坂の上の雲」に出てくる。屈辱を日々新たにすべく、ゴツゴツした薪の上に寝て苦い肝を舐めながら、呉王夫差と越王勾践がそれぞれ復讐の機を待ったという物語を、中学か高校の漢文の授業で習ったものだ。呉越同舟という四字熟語も習ったな。両国は戦争ばかりしていたらしい。

 当時の日本人は、列強の外交圧力により、勝ち得たばかりの遼東半島を横取りされて怒り心頭に発したらしい。油揚げをさらったトンビのロシアは仮想敵国になった。いや、仮想というより、戦争直前の敵国になったと言ってよいだろう。海軍は山本のゴンベエさんが時代遅れの将のリストラに奔走し、十年計画で艦隊を創設し始めた。陸軍は師団を増設し、雪中行軍という過酷な訓練を繰り返すことになる。


 というのが一般的な解釈だろう。他方で、この加藤の戦友の話は、単に強盗に対して怒っている人々の勢いとは趣が違う。日本の土に埋められたはずの加藤が、いまや名目上は清国、実施的には露国の地に眠っているのだ。

 著者は自身が遼東半島に上陸したとき、「これもやはり日本の土地だ! 勇敢なる戦友の血の塊だ」と叫んだのだという。木の板でできていた墓碑は探したけれども見つからなかったらしい。それでも、当時の日本がロシア帝国に向かって立ち上がったときの悲壮な決意を描いて余りある。


 島田謹二さんの解説によると、「坂の上の雲」は昭和四十三年四月二十ニ日から四十七年八月四日まで、足かけ五年」にわたり、サンケイ新聞の夕刊に連絡されたとある。終盤の昭和四十七年は、西暦の1972年にあたる。この年の私は小学6年生だったが、あの大騒ぎは今も記憶に新しい。沖縄返還である。

 正確には1972年5月15日。実家の新聞に、いきなり車が右側通行から左側に変更になって、現地で事故が続発しないだろうかと心配そうな記事が載っていたのを覚えている。知る限りでは大混乱はなかったようだ。そして、「坂の上の雲」に出てくる沖縄は、バルチック艦隊が勝手に横切って行った島々として、また、そこに住む人々の豪快無双な船旅が描かれている。

 単に日露戦争当時の沖縄が日本の一部であり戦場にも近かったという理由だけではなく、そういう返還前後の時代背景の中で小説を書いていることは、司馬さんも当然、心得ていたはずである。当時の読者も、急に身近になった沖縄を舞台にした場面を楽しんで読んだことと思う。


 急に話題が時事になる。或る程度の人数を怒らせるのを覚悟で書く。今の日本国は、軍事拠点を巡って国と県が正式に訴え合うという異常事態に陥っている。沖縄の米軍基地問題は、テレビのニュースや新聞で耳目に入っては来るが、余りに複雑なのでいずれかの肩を持つほど理解できていない。だが現に裁判沙汰の応酬が起きている以上、現政府に国内の統治・調整の能力が著しく欠けているのは間違いない。

 どうもアメリカに漁夫の利をさらわれそうな気がしてならん(今日は中国産の諺が多いな)。古代、ローマは「分割して統治せよ」という軍事外交の政策方針であったと子供のころ勉強した。被支配地が連合しないよう、お互いにケンカさせておけば一安心というわけだ。
 

 それと同じ発想をアメリカが、東アジアの諸国に対して発動しているようが気がする。私はこれでもアメリカに五年近く暮らして、たいていの日本人よりアメリカが好きなつもりでいる。そういう私でさえ、彼の国のアジア外交をながめていると、分割統治のような「ケンカのけしかけ」をしているように感じることが最近、多い。これがもし「当たり」だったら、極めて危険である。

 これは何の根拠もなく述べているつもりはない。「坂の上の雲」に出てくる大英帝国の動きが、これそのものだった。国内や隣国との間で、争ってばかりいては消耗する一方である。雑誌やネットなど読んでいると、みな余りに沖縄に無関心か、さらに言えば冷酷な者も少なくない。


 何度も書いてきたように、私は沖縄に遊びに行き、泳いだり釣りをしたりするのが数少ない楽しみの一つである。現地で嫌な思いをした経験など覚えがない(クラゲに刺されたくらい)。

 だから、こういう機会に、少しでもご恩を返さなければ、沖縄に足を向けて寝られない。でも残念ながらこれ以上、強烈に書けない理由は、「では、米軍基地は、どこに置けばよいのか」という質問が飛んできても答えられないからだ。


 正直にいうと、先日、出張先で米軍基地を離着陸する軍用機のすさまじい轟音を聴きながら、これがうちの隣に引っ越して来たらかなわんと反射的に思った。こういう難題を解決するために存在するはずの政治家が、裁判所に決断を放り投げた。

 ともあれ、先日の韓国との金銭解決といい、戦争に負けると何十年経っても大変ということになる。「鬼畜米英」はかつて日露戦争のとき友好的であった。今の関係がいつまでも続くというのは、国際社会ではありえない。散漫な文章になったまま終わるのも悔しいが、収拾がつかなくなってきたので一旦、区切ります。




(この稿おわり)






奈良にもあった一戸さんの忠魂碑   
(2015年12月27日、飛鳥寺にて撮影)

















































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