正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

春の草  (第101回)

 1895年の4月、子規は15日に大連の柳樹屯に上陸して金州に一泊、翌16日から宿は再び海城丸となったが、19日に「小蒸汽船にて旅順へ赴けり」となった。旅順ではちょうど「大総督府附新聞記者」の一行も上陸してきて、一緒に彼らの記者宿所に入ったが、ここもまた近衛より待遇が良い。

 この大総督府について、少し補足します。総督府といえば、戊辰戦争のときの東征総督府が、先ず思い浮かぶ。薩長が担いだ錦の御旗の持ち主。日清戦争においては、結局実現せずに帰還することになるが直隷の決戦に備えてであろう、宮様におかれても現地にご足労いただいた。


 総督のお名前は、小松宮彰仁親王という。この方の像が近所の上野公園に立っており、見上げるような馬上姿の立派なもので、おそらく日清戦争の記念品なのだろう。場所はJR上野駅の公園口から出て、真っすぐ北に上野動物園に向かって歩く道の左側にある。

 もう百回以上その前を通過しているはずだが、何度見ても名前を覚えられない。しかし、この親王の数えきれないほど多い兄弟姉妹のうち、兄の一人が畏れ多くも今上陛下の母方の曾祖父であり、弟の一人が「従軍紀事」の最後に出てくるので、後日、触れます。


 旅順での子規は戦場の一つ、営口に行こうとしたのだが、なぜか兵站部の許可が下りず、満足な取材もできぬまま、23日には花嫁が「再び姑のもとに帰るが如き心地」で柳樹屯に戻った。

 それ以降、帰国まで再び金州の近衛師団とのお付き合いが続く。「従軍紀事」では、子規が旅順で何を見たのか全く分からない。「坂の上の雲」には、旅順にも行ったという事実関係しか書かれていない。それも、「見学旅行のようなもの」の一環と評されている。

 
 詳しいことを何も知らないのだが、日清戦争において旅順では虐殺事件があったという中国側の主張がある。日本兵の中にも、大虐殺かどうかはともかく、いわゆる匪賊というのか、民間人ゲリラを討ったと書き残している人もいるらしい。でも子規が何を見たのかは分からない。

 ずっと前にここで書いたが、子規は「仰臥漫録」において、西暦1900年の義和団の乱に際し、北京籠城で名を挙げた柴五郎を評価している気配があり、「坂の上の雲」では、柴中佐が率いる日本軍だけが略奪暴行に加わらなかったと記されている。


 NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」の第3回「日清戦争」では、柳樹屯で子規が「兵站軍医部長 森林太郎」に会う場面がある。このとき、子規は手帳らしき冊子に書き留めた「陣中日記」の原稿と思われるものを鴎外に見せた。

 畑に骨がごろごろ転がっているというような描写に加えて一句、「亡き人のむくろを隠せ春の草」とある。日本軍の遺体であれば、この戦争の場合、畑に放置はしないだろう。この従軍中、子規が見聞したものは、おそらく期待から大きく外れたものだったのでは、という感じがする。


 さて近衛師団であるが、子規は「従軍紀事」の最後のほうで、「全国の精鋭を集めし」部隊であると書きつつ、それが故に、新聞記者にも同師団従軍の希望者が多く、「さらでも鼻の高き近衛師団はますます鼻を高くし」と容赦がない。よほど印象が悪かったのだ。しかし新聞にここまで書くか...。

 近衛師団は後年、近衛の役目でありながら、二・二六事件や宮城事件を起こす。前者のクーデタでは天皇が味方についてくれず、後者の騒動では天皇にたてついた。ともあれ、子規が本当に怒り心頭に発するのは、まだこれからのことである。





(おわり)





春の花 (2017年3月31日撮影)

































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