正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

落合と首山堡  (第109回)

 手元の文春文庫「坂の上の雲」第八巻は、最後の章「雨の坂」に続き、「あとがき」(一から六)がある。最後に、手ぐすね引いて出番を待っていた姿が目に浮かぶような巨星島田謹二による渾身の「解説」があるのだが、このあとがき集と解説の間に「落合と首山堡」という異色の短文がある。

 これの執筆目的は、筆者の全集にある「坂の上の雲」の「修正」であり、主旨は「遼陽」の章にある第二軍の「首山堡」(しゅざんぽ)攻防作戦の不備につき、執筆当時は第二軍参謀長の落合豊三郎少将の責としたが、その後の調べで総司令部の参謀、作戦主任の松川俊胤だったというものだ。

 このほど改めて、これを読み返したのは、これから「遼陽」その他において、仙台第二師団や秋山支隊の活躍を追うにあたり、頭の中を整理しておきたかったからです。目的は備忘であって、ここでどちらが悪いというような話はしない。


 私がこの「落合と首山堡」に前から興味を持っていた理由は、参謀の能力や責任の所在ではなくて、この文章には、簡略ながらも印象的な司遼太郎の文学論が、冒頭に置かれているからだ。原則はこう書いてある。

 本来から言えば、事実というのは、作家にとってその真実に到達するための刺激剤であるにすぎない
 他方で、それに続き、このたびは例外であったと書いてある。

 しかし「坂の上の雲」に限ってはそうではなく、事実関係に誤りがあってはどうにもならず (後略)

 
 小学生のころから私にとって、歴史と地理は好きな教科で、この好みは今も変わらない。ただし、子供のころは純真にも学校で教わることは「すべて正しい」と信じて疑わなかったのだが、もちろん今は、すれっからしになった。

 史学と歴史は違う。ここでいう史学とは、文献学とか考古学といったもので、それはそれで重要な社会科学だが、それとて書かれたものや出てきたものが、本物で歴史的事実をそのまま語っているとは限らない。石器時代の主な道具は木製だったはずだ。


 一次資料だから正しいとか、二次三次と進むにつれて信憑性が低いとかいうのも、研究者仲間の決め事としてはどうぞご自由にと思うが、当事者であればあるほど嘘や誇張や黙殺に忙しいというのは、日記や手紙や議事録を書いたことがある人なら、いくらでも心当たりがあるはずだ。

 こういった資料の不足や、どうやら不備ではないかと思うような点を見定めて、行間を埋めながら物語を作り出していくのが文学や思想や宗教の役割だと思っている。こちらは芸術や人文科学と呼ぶのかな。ジャンルの名称はともかく、両者の合作が歴史である。


 したがって、私のブログは研究ではなく、あくまで「感想文」なのであって、この看板だけは外せない。そもそも研究者ではないし、なろうとも思わない。好奇心だけは旺盛だから、ときどき調べ事に夢中になることはあるが、極める前には先に進んでいる。

 言葉を換えれば、そこに書かれていることが事実だろうとフィクションだろうと、面白ければそれでよく、だから子規の作品や「坂の上の雲」の世界から殆ど全く一歩も外に出ていない。


 これらの作品が書かれてから随分と年月が経ち、特に今のところ日本では軍隊が消滅したままなので、執筆当時の資料に加えて、あるいはそれらを修正するような日露戦争等のデータはたくさん出ているだろうし、これからも出るだろう。でも私には余り事実関係に興味がない。ものによる。

 だから当方にとっての「坂の上の雲」は、平家物語太平記の読書と変わらない。時代がうんと近いだけに、親近感のようなものは大きいが、いずれにせよ生まれる前の話であり、出てくる人物や出来事そのものに関心があるだけだ。司馬さんの言う「真実」である。


 昨今は司馬作品、特に「坂の上の雲」をイデオロジカルに読みたがる人が多いようで、書籍もネットも「司馬史観」は間違っているだの、反日だのと大合唱のごとし。

 止めても止まらないのが感情的な人たちだから止めないが、せめて後世の読者が下手な先入観を持たないように、持論は持論で書きます。私にとって「坂の上の雲」は娯楽小説だ。議論の余地はありません。


 「落合と首山堡」も、本部と現場の軋轢・相克といった組織の永遠のテーマを取り上げているのだが、さすがは作家だなあと思うのは、これを「感情問題」と一言で表現していることだ。「坂の上の雲」は基本的に事績を並べているのではなく、人を描いている。それが好きで読んでいる。

 それでは気が済まない人たちが、皇居に楠木正成の像を立てたりするのだ。なお、追って松川さんには、黒溝台で好古を怒らせる場面と、奉天で乃木さんを怒らせているはずの場面で、再登場いただく。とにかく司馬さんは、陸軍参謀には点数が辛いのだ。青年時の人生経験によるのだろう。





(おわり)





谷中の天王寺にて  (2017年4月23日撮影)





































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