正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

病院船  (第118回)

 バルチック艦隊随一のお騒がせ舟、「病院船アリョール」は、最初に見つかってしまった敵艦であった。「坂の上の雲」第八巻の「敵艦見ゆ」に出てくるこの「アリョール」の灯火は、後檣(後ろのマストですか)に連掲されていて、色は白赤白だった。これは映画「日本海大海戦」だと、上からこの順に並べてマストに巻いてある。

 前回の続きで、仮装巡洋艦の「佐渡丸」は、大誤報の汚名を挽回すべく、片岡司令官の連絡を軍命であると忖度して出動。その割に、釜屋忠道艦長は正直で面白いお方であり、「自分は今や正にたけなわなる戦場を後にして、病院船などに向かうことは千載の遺恨」と後年になってわざわざ語り、ともあれ「戦場外に出た」。


 戦場外であるということは、主戦力の艦隊から離れていたということだろう。文庫本第八巻の巻末にある「海戦図1」(5月27日午後2時)では、病院船2隻「アリョール」と「カストロノーマ」が、露国艦隊の最後尾から少し後ろに離れている。

 他の複数の資料によると、この長かったバルチック艦隊の大移動において、航海中は病院船を先頭に進んでいたという報告(たぶん英国からだろう)がある。「正にたけなわ」になる前に、後ろに下げたのだろうか。逆にいうと、それまで何故、先頭に置いたのだろう。


 「信濃丸」は、暗闇で病院船を見つけ、確認のため、その背後に時間をかけて回った。そして日が昇り、信濃丸は大艦隊の真ん中に迷い込んだことを知ったとある。これを普通に読めば、午前5時ごろの段階では、病院船は先頭かその近くにおり、後ろに回った信濃丸がその前後に大艦隊を見たということだと思う。

 直前まで病院船を「盾」にしておけば、前方から砲撃されまいということはあるだろうか。ともあれ「坂の上の雲」には、「病院船アリョール」のみが夜間の燈火が許されていた理由として、著者の推測であるが「病院船はヘーグ条約によって中立侵すべからずということになっている。だから点燈してもいい。」とある。道案内の提灯が見つかったらしい。


 釜屋忠道さんは、この座談の話っぷりや、その行動からして、近代海軍軍人というよりも、村上水軍頭目のような船乗りなのだが、さすが中立の件はよくご存じで、「ゼネバ条約第何箇条かによれる万国の認むる不可侵権を有する赤十字病院船たるに相違ないのであります。」と報告している。

 その割に、逃げる病院船を追いかけ、「弾丸一発飛ばしてやりました」と堂々と述べている。弾は遠くて届かず、さらにもう一発撃ったところ、これも届かなかったが、相手はおびえたらしくて停船した。国際法も何もない。東郷さんが忙しくて良かった。


 なお、別の機会にどこかで、条約の保護を受けるためには、赤十字に登録しないといけないというのを読んだ覚えがある。そりゃそうだろう。釜屋艦長はすでに昼になって目視しているから、相手が「各檣頭には赤十字の方旗を翻し」ているのをちゃんと見ていて、これだ。

 「佐渡丸」は近い方のアリョールに接近し、「満洲丸」には遠い方の船に向かわせた。そして釜屋さんの表現を借りると、「アリヨール」と「カストロマ」の両病院船を、対馬の或る湾に連行した。目的は臨検、査問である。武器などが積んであれば、病院船であろうと軍艦扱いにできるらしい。


 部下の福田大尉が、この任務を帯びて「アリョール」に乗り込んだところ、「そこへ天女のごとき立派な体格の美しき婦人が現れまして」、「お前さん方はいったい何の権利があって、本船を抑留したり臨検捜索したりしますか」と言った。

 ご婦人は偉い人らしく、ロシア人たちは彼女の前を通るとき、腰を屈して敬礼する。また、五か国語に通じ、英語も流暢だったそうだ。福田大尉は釜屋艦長にあらかじめ言われていた通りを伝えて、彼女を黙らせた。

 すなわち、文句があるなら一人で佐渡丸に交渉に行け、ただし「佐渡丸艦長は非常に猛烈な男だから、もしお前さん単身で行ったなら、どんな酷い目に遭わされるか分からない」という脅迫である。やっぱり村上水軍だ。ここまでくると講談のようだ。


 さんざん砲撃や口頭で脅した甲斐はあった。この船には外国人が強制的に乗せられており、その人たちが言うには「戦時禁制品」を隠し持っていたので、それを取り返したいし、ウラジオストクに行くのは嫌だから、そっちで捕まえてくれという。

 彼らは、文庫本第七巻「艦影」に出てくる英国汽船「オールド・ハミヤ」号の船長以下乗り組み員で、アメリカに石油を輸送中に、5月19日、間の悪い日時と場所でバルチック艦隊に捕まってしまい、船は遅いので放逐されたが、イギリス人たちは露国の各艦に分乗させられ、恐怖の戦場に引きずられていく最中であった。


 捕獲が決まった。看護婦が泣き叫ぶ声が、佐渡丸まで聞こえたという。ロシアの病院船二隻は、「満洲丸」が佐世保に連行することになった。第八巻「雨の坂」にある最終戦果報告において、「抑留されたもの病院船二」とあるのが、この災難に遭った二隻のことだろう。

 面倒は「満洲丸」に押し付けて、釜屋艦長は勇躍、戦場に戻る。長くなるのでこの後の活躍は、またいつか話題にします。病院船の件は、講談と呼ぶにふさわしい「オチ」がついている。

 釜屋艦長が戦闘終了後に佐世保に戻ると、「例の露国病院船」がいた。なんと露国皇帝が御自ら、その病院船は最新型の立派な船だから返してほしいと日本政府に申込があったが、経緯が経緯だけに病院船ではないと突っぱねて没収した。そして、船内にいた天女のようなご婦人は、「ロジェストウェンスキー提督の姪であった」そうです。




(おわり)




 

上野寛永寺慶喜謹慎の地。
(2017年4月23日撮影)