正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

腹が減っては  (第122回)

 
 「例の出羽司令官」と、その第三戦隊の参謀を務めた山路一善中佐の名は、そろって文庫本第七巻「艦影」に出てくる。同章のこのあたりの記述は、もっぱらバルチック艦隊が、対馬コースか太平洋コースか、そのいずれを採るのかという論争について触れている。

 「秋山さんは敵は津軽海峡を通るとみていた」と、山路さんは言い切っている。真之が周囲にもそう言っていたのは確かなようで、鈴木貫太郎は例によって「私はそうは思わないな」と後輩にも反論している。

 
 山路・鈴木の説は、体験論に基づいている。二人とも、太平洋で石炭を積み込む作業を経験しており、あの暑い海で、そんな作業を続けながら来る敵艦隊は、もっと遅く、真っすぐ来るはずだという考えだった。

 山路さんの場合、所属する出羽重遠中将の第三戦隊が、1905年の2月ごろ南方に遠征している。「艦影」の章によると、彼らは旗艦「笠置」に乗って、バルチック艦隊を探しにいったのだ。東郷さんの第三戦隊の使い方は面白い。出羽どんに任せもす、という感じがする。なんせ会津の侍だ。下手に命令しないほうが良い。


 この戦隊は快速船「笠置」、「千歳」ほか、例の「亜米利加丸」など計5隻。マカオ、香港、海南島の沖合を巡り、後に敵艦隊も停泊するベトナムのカムランやヴァン・フォンにも寄り、シンガポールにも寄港した。

 これが「シンガポールに日本の大艦隊が出現した」という誇大広告になって、ロジェストウェンスキーの繊細な神経を痛める。期せずして心理戦になったのだ。シンガポールは赤道の真下だ。ここでの石炭積載が大変だったと山路さんは回顧する。


 大正十五年の山路さんの談話「第三艦隊の行動」によると、5月27日午前4時45分、彼の乗艦「笠置」は、「敵艦らしき煤煙見ゆ」という「信濃丸」の無線を傍受し、さらに5分を経過して、「敵の第二艦隊見ゆ、地点二○三」という確報が来た。

 出羽司令官はさっそく針路変更し、5時25分に「信濃丸」が追加で知らせてきた「東水道」(対馬の東側)に向かった。5時50分、山路さんが最初に見たのは病院船だった。この時点で、まだ先頭は赤十字の旗をたてた病院船「アリョール」だったらしい。その南方に、一塊りの煤煙あり。予想通り、来た。


 ただし、濛気で船団が見えない。この時点で、出羽司令官がとった行動は、艦橋を下り、朝飯を食いに行った。山路さんも、急いで食った。同じころ、ロジェストウェンスキーも、朝食命令を出している。だが、食後も濛気は去らない。そこに僚艦「和泉」より、敵は二二五地点にありという報告電が来た。

 山路さんも、なぜか敵は無線の妨害に熱心ではなかったと語っている。大正十五年になっても、謎のままだったらしい。妨害電波を出せば、こっちの場所も分かるだろうから、黙ったまま濃霧に紛れて逃げおおせるとでも思ったのだろうか? 


 しかし、「和泉」に見つかった時点で、それは手遅れか。第三艦隊は、距離八千まで接近し、速力を増して「敵の前方に出た」。このあたりから、「坂の上の雲」にも登場する。左側に寄り添ったらしい。特に戦艦「アリョール」に近かった。病院船と偶然、同じ名前である。

 司馬遼太郎は、こう書いている。
 特に戦艦「アリョール」は士気が高く、砲員たちは動作のすみずみまで闘志をみなぎらせ、どの男も生まれながらに神がそのように作りあげた理想の戦士のようだった。


 まるで、見てきたように書いていると歴史小説が嫌いな人なら云うのだろうが、この戦艦「アリョール」には水兵ノビコフ・プリボイがいるのだ。上記もおそらく、彼の著書「ツシマ」に拠っているのだろう。
 
 ロジェストウェンスキーは、その前に出現した片岡艦隊のときと同様、「捨て置け」と殿様のように命じたままで、理想の戦士たちは「どうして射撃命令が出ないんだ」と騒いだ。そうだろう。戦うために地球を半周してきたのだ。「錯覚」が撃たせたと司馬さんは言う。「アリョール」が口火を切った。


 こちらは、砲弾が飛んでくる側の第三戦隊の山路さん。「左列のオーロラ、オレーグおよび海防艦二隻よりわれに砲撃を開始しました。着弾なかなか良好でありました」。第三戦隊も応戦し、「これが当日、本船隊戦闘の発端」となった。これが沖ノ島の少年の耳に届いた砲声だろうと作者は想像する。

 山路さんによると、彼の第三戦隊は、瓜生司令官の第四戦隊とともに敵の後尾にまわり、巡洋艦同士が北に向かいながら砲撃を交わした。極東に向かう途中でイギリスを怒らせた「ドッガーバンク事件」を招いた工作船カムチャッカはこれに巻き込まれ、後に沈没している。

 
 こっちも被弾した。旗艦「笠置」が水面下に敵弾を受けて漂流し始めたため、さすがの出羽司令官もいったん戦場を離れ、「千歳」に乗り換えて引き返した。戦後、鈴木貫太郎がシャンペンをおごってもらったのが「千歳」だったのは、このとき旗艦が交代したためだ。

 このあと、瓜生・出羽の両軍は、イズルムードを追いかけ、ドンスコイを追いかけと忙しい。他方で、ノビコフ・プリボイの戦艦「アリョール」は、ボロジノ型最新鋭戦艦4隻のうち、唯一、沈没を避け得たものの満身創痍となってネボガトフに合流し、結局、翌日になって包囲され降伏した。


 出羽艦隊最初の交戦相手だった「アリョール」の艦長ユング大佐の最期が、「ネボガトフ」の章に出てきて、切ない。アリョールは戦艦「朝日」に拿捕されたが、「朝日」艦長の野元大佐は、ユング艦長とペテルブルグの駐露公使館勤務時代からの親友だった。広瀬も会ったろうか。

 ユング艦長は重態で、降伏を知らされていない。野元艦長は、このため訪問できずにいた。舞鶴に曳航される途中、29日の夜、ユングは世を去った。水葬式は日露の兵により、「アリョール」艦上で行われ、野元は自艦の「朝日」に残り、艦尾で見送った。建造中の「朝日」を、かつてイギリスで真之と広瀬が見学している。





(おわり)




 

大和の法華寺にて  (2017年3月24日撮影)












































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