正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

駆逐隊  (第123回)

 小東郷は、駆逐艦にも乗っていた。日本海海戦のときは、駆逐艦隊が第一から第五まで、また、水雷戦隊は第一から第六まで、それぞれ四隻ずつで、合計44隻であったと、第四駆逐隊長の鈴木貫太郎が分かりやすく書いている。

 最近ここで鈴木だ貫太郎だと、馴れ馴れしく呼んでいるこの人は、後年、ポツダム宣言を受諾し太平洋戦争を終わらせたときの内閣総理大臣であられる。端役ばかりでは申し訳ないから、今日は彼が「戦袍余薫懐旧録」(大正十五年)で語り残している話の概要に触れます。


 記録では「先刻石田君の言われたごとく」敵艦隊は二列縦隊で来たと述べているから、「和泉」の石田艦長のあとに座談の順番が回って来たらしい。本来、第四駆逐隊は、上村彦之丞司令長官の第二艦隊の所属で、大決戦を前に上村さんがウラジオに機雷数百個を撒きにいったときも「お伴」で掃海作業をしている。

 一方、対馬沖では臨時編成で、出羽さんの第三戦隊とともに、偵察係だった。しかし、日本海は波高し、しかも風が強くて、5月26日には彼が率いている4隻の駆逐艦のうち、2隻のマストが折れた。「三国志演義」なら、不吉な前兆と呼ぶだろう。そんなことを言っている場合ではない鈴木さんたちが「修理をしておりますと」、信濃丸の信号が届いた。


 反射神経の人である。自分の駆逐艦隊だけで「全く単独をもって」出撃し、午前9時ごろ敵の左側に出た。第三戦隊が見えない。やむなく、待っていた。「和泉」の索敵報告が入って来る。目の前を、そのとおり二列縦隊のバルチック艦隊が進んでいく。

 いったん追い払われたのに「戻って来やがった」出羽戦隊は、後ろから来て、ちょうど自動車が追い越し車線で前の車を抜いて先に立つように、ロシア艦隊の目の前に進み、頼まれてもいない道案内役を買って出た。


 これが昼の12時ごろ。大海戦の2時間ほど前だ。「坂の上の雲」第八巻によれば、鈴木貫太郎の心理描写は、「いっそ敵の前面を通過してやれ」となっている。敵前小回頭。もっとも鈴木さんの回顧談によれば、出羽先輩の第三戦隊のうしろに追い付くべく、「これは何の気もなくやったことでありますが」ということらしい。

 相手の鼻面の前を横断したところ、針路も「和泉」の報告通りだったので、あえて追加の電信も打たなかった。そのかわり、乗船している駆逐艦「朝霧」の飯田艦長に、「一つやろうか」と水雷攻撃を提案した。しかし、味方も多いので同士討ちをおそれ、この思い付きの計画は流れている。


 この先が資料により、その動きの詳細も、そうなった原因も説明が異なる。バルチック艦隊が、その隊列を乱した。司馬さんの描写は、鈴木さんの考えと同じで、ロシア側の資料によれば、日本の駆逐艦による機雷の敷設を嫌って避けようとしたものだという。違う見解もあり、私には判断がつかない。ともあれ、整然とは来なかったらしい。


 文庫本第五巻「海濤」に、秋山真之が後に「七段構え」と呼ばれるようになる戦法を練りつつある場面が出てくる。第一段は、駆逐艦水雷艇など足の速い船で敵を混乱させる。第二段が主力決戦、第三弾が夜間の魚雷戦。あとはこの繰り返し。

 第一段は、当日の強風波浪のため小舟が動けず、したがって行われなかったという人がいるが(司馬さんも別の場所では、結果的にという意味だろうが、主力の戦いが第一段と書いている)、私はそうは思わない。

 この日の「信濃丸」や「和泉」、出羽さんや鈴木さん達による文字どおり決死の行動は、たとえ結果的にであったとしても、ボクシングでいえば、いいジャブが入っている。


 鈴木さんら駆逐艦隊は、夜の第三段に備えて、昼間の主力同士の戦いは、かぶりつきの見物になるはずだった。この日の日没は7時過ぎ。ところが、鈴木貫太郎によると、午後4時ごろ「駆逐隊、艇隊襲撃せよ」という信号が上がった。誰が上げたかは書いていないが、上の人だろう。

 座談会なのに、「両軍はまだ闘っている、この場合襲撃せよというのは、はなはだ要領を得ない信号」だったと言っている。巨弾飛び交う中に、飛び込むわけにもいかない。


 第四駆逐隊でも戦えそうな相手は、見渡す限りにおいて、「極めて遅い速力で、列外を航行しているスワロフくらいのものである」ということになった。4隻の駆逐艦は、これに向かった。第二艦「村雨」の魚雷が、「美事に行った」のを観た。ここで、とどめを刺すのかどうか。

 第四艦「白雲」の鎌田艦長の意見が面白い。もうスワロフは、煙突もないし、これではウラジオに行く気遣いはない。魚雷の無駄遣いになるから、他で有効に使おうという。鈴木隊長も同意した(もっとも、翌日、上司には謝りに行ったらしい)。


 これでロジェストウェンスキーは、命拾いをしたのかもしれない。彼がスワロフを捨てて逃げ出したのは5時30分だから、このときまだ旗艦の中にいたのだ。ともあれ、戦闘終了後に鈴木隊長は、東郷平八郎司令長官に経過報告に出かけた。

 上記の「白昼攻撃」が話題になったとき、東郷さんは「いやあなたの攻撃はよく見ていました」と言ってくれたそうだ。なにせこの日は、単に勝つのが目的ではなく、滅ぼさなければならない。司令長官も全海域をツァイスで注視していたはずだ。スワロフに立ち向かう駆逐隊。壮観だったろう。







(おわり)






大和路のカラタチ  (2017年3月24日撮影)