正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

剣山  (第139回)

 生け花の小道具の話題ではございません。遼東半島にある山の名前。日露戦争の古戦場です。乃木さんの第三軍は緒戦好調で歪頭山を落し、次にその内陸側にある剣山に向かいました。この山の名前の読み方が気になる。

 「坂の上の雲」文庫本第四巻には、「つるぎざん」というルビが振ってあります。乃木さんが占領した後、遅れて上陸してきた大山・児玉のご両人を、この山頂に案内し、児玉源太郎が「これはすばらしい眺めだ」と感嘆したのがこの山。


 児玉は観光旅行的な意味で喜んだのではなく、剣山の頂からは大連湾や、他のロシア要塞も見渡せたからだ。そういう点では、のちの二○三高地の重要性とよく似ています。ただし、二○三高地は旅順港から遠くて、日露双方ともしばらく気付かなかった。

 さて、一方の「殉死」では、フリガナが「ケンザン」になっている。櫻井忠温著「肉弾」も「ケンザン」。平塚柾緒著「旅順総攻撃」でも「けんざん」。しかし、「肉弾」によると、この山の命名者は乃木将軍で、健闘した櫻井さんたち善通寺の第四十三連隊を賞してか、四国の名山、剣山(つるぎやま)にちなんだというから、ややこしい。


 意味は同じですからどちらでもいいのですが、櫻井さんは元はロシア側が「クイン山」と呼んでいたと書いているので、音が近いという点では「ケンザン」に軍配が上がりそうな気がする。それに断崖絶壁の険しい山というと生け花の剣山的だし、乃木さんは漢詩の達人だから、音読みのほうがふさわしい。

 ただし、標高は368メートルと複数の本に書いてあるので、東京タワーと大差ない。しかし先述の戦略的重要性から、ここのロシア軍は頑強であった。戦闘は大砲の打ち合いで始まり、ロシア軍は小銃の一斉射撃を加えてきた。地雷も敷設されている。最後は白兵戦になり、激闘5時間で日本軍が奪い取った。


 「坂の上の雲」の「黄塵」の章によると、ここの露軍の担当士官はロバチンという大尉で、彼は「この戦争をつうじてロシア軍でもっとも勇敢だった戦闘指揮者」であったと、司馬さんも最大級の評価を与えている。

 しかし、旅順要塞は前にも書いたが、南山以降、逃げてきた戦友に冷たく、要塞の中に入れなかったり、このロバチン大尉に至っては、退却の責任をステッセルに問われ、軍事法廷に召喚されてしまい、獄中で憤慨のあまり自殺をしたそうだ。まったく上役に恵まれない人であった。


 そもそもロシア側のクイン山守備の責任者は、その南山で奥軍に負けて退いできた少将フォークなのである。またも乃木軍に負けて逃げた。これが、6月26日のことである。しかし、続きがあった。これは「肉弾」に出てくるが、一週間ほど経った7月3日に敵軍の逆襲があった。追い落とした。

 その晩、夜襲をかけてきた。追い払った。払暁、また攻めてきたというから凄い。櫻井さんは相手の指揮官を知らないが、敵ながら天晴れという感じで褒めている。

 平塚柾緒「旅順総攻撃」では同じ日付で同様の記載があり、平塚さんによると、当日の敵将は戻ってきたコンドラチェンコであった。厳密にはフォークに対する命令違反かもしれないが、戦場で責められるとしたら、上司が正しい場合に限る。これも激しい銃撃戦のうえ退けた。このあたりから櫻井さんたちも普段は節約する銃弾が、「撃ち放題」になったそうだ。


 「坂の上の雲」には出てこないが、このあと西の旅順に向かいつつ戦った太白山や、大狐山の攻略も、櫻井中尉によれば両軍とも死傷者続出の激戦だったらしい。そろそろ、この辺で乃木司令部にも、日清戦争のときとは勝手が違うという実感が湧いてきたはずだ。

 旅順の「外堀」のような位置と役割にある磐竜山や東鶏冠山に迫ったときには、1904年の7月になっている。大本営が旅順の攻略を公約した8月の下旬、北は遼陽、南は旅順で日露の大激戦が始まる。だんだん読むのが辛くなってくる。




(おわり)




法師蝉  (2017年9月8日撮影)









































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