正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

”海軍の乃木さん”のような人  (第140回)

 昭和期の帝国海軍において、そう呼ばれた軍人がいる。いま私は戦死した伯父の戦争について、あれこれ調べ事をしているのだが、ミッドウェー海戦で空母「蒼龍」の艦長を務め、爆発炎上した船と共に海に沈んだ柳本柳作大佐がその人。乃木さんが、後世の日本軍にどういう印象を残していたか、参考になりそうだ。

 柳本大佐は、青年士官だったころの大正11年、数年後に昭和天皇となられる摂政宮の渡欧に使われた軍艦「香取」に乗り組んでいた。途中、アデン(今のイエメンにある)の港で、柳本さんは担当業務である食糧調達のため、魚を買った。


 そのとき、綺麗な舟に乗った大男がさっそく漕いできたので魚を買い求めたところ、後部甲板から「柳本中尉、むこうの舟からも買ってやったらどうか」という摂政宮の声がした。見れば十歳くらいの少年が、けんめいに漕ぎ寄せてくる。柳本さんは「打たれるものを感じ」、その舟からも買った。

 その夜、柳本中尉は同僚にこう語ったと、豊田譲「ミッドウェー戦記」にある。「摂政宮の心は、天性広く出来ておられる。吾々も、部下を大切にする気持を忘れてはならぬ」。摂政宮の心が天性広かったかどうかは知らないが、彼の師が乃木希典であったことは知っている。


 柳本さんは無類の頑張り屋であり、徹夜で海軍諸令集を暗記し、山岡鉄舟が創始した無刀流と禅を修養した人で、乃木さんと違う点は小柄で大食漢であった。「海軍の乃木さんのような人」という人物評を、豊田さんに伝えたのは、空母「蒼龍」から生還した元部下の金尾滝一砲術長。

 亀井宏「ミッドウェー戦記」にも、柳本艦長の人柄や言動を伝える証言が収録されている。まずは連合艦隊参謀長の宇垣纏、「古武士的風格、精神に於ても働きに於ても、凡庸を抜きたる逸物なり」(「戦藻録」)。


 巡洋艦「筑摩」の古村啓蔵艦長によれば「絵にかいたような武人」で、死なすのが惜しく、どうせ「蒼龍」から降りてこないだろうとは思ったが、自分の船を「蒼龍」に向かって走らせた。部下は退却させたが、当人は降りてこなかった。

 一等整備士だった元木茂男氏は、「日常における挙止の点でも、つねにわれわれの景仰を一身に集めておられた。われわれ一兵卒にいたるまで心服し、この艦長の下でならいつ死んでもいいとおもっていたとは生存者全員の語るところである」という。最後は当日、「蒼龍」のナンバー2だった小原尚副長の言葉。「柳本艦長ですか、神様みたいな人ですよ」。


 私は乃木大将も柳本艦長も、本で読んだり映画で観たりで僅かに知るのみであり、実際の彼らがどういうお方だったのか詳しく知る由もないが、ともあれ、はるか後年の帝国海軍において、乃木さんはこういう風に語られている。

 海軍が、お互い仲が良かったとは思い難い陸軍の昔の人を持ち出してまで、柳本館長を評し慕い続けるとは、やはり乃木さんの磁力ともいうべき何かが、尋常ならざるものであった証左だろう。


 残念ながら、櫻井忠温「肉弾」には、当方の読み落としでない限り、乃木司令官に関するこのような評判は出てこない。これは仕方のないことで、同じ軍といっても遼東半島で急きょ合流し、こちらは連隊の一部隊、むこうは司令部、しかも櫻井さんは半年ほどして重傷を負い戦列を離れたままになった。

 これでは本人も周囲も接点というものがなかったろう。それなのに、乃木さんは「肉弾」の出版にあたり、「壮烈 贈 櫻井中尉 希典」という揮毫を寄せている。乃木さんも柳本さんも、命を預ける軍人が、上司はこうあってほしいという日常の挙止と精神性を備えていたのだろう。

 この二人には、戦場において、共通点がある。大本営や上位組織(乃木さんにとっての大山・児玉、柳本さんにとっての連合艦隊)は、敵を舐めていた。当所、児玉さんは旅順対策について、「竹矢来でも組んでおけばよい」と言ったらしい。乃木も被害者だと司馬さんは繰り返し書いている。



(おわり)



あの震災から6年半、あの無差別テロから16年、東京の夕焼け  
(2017年9月11日撮影)














































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