正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

明治150年  (第147回)

 感想文がこれから旅順総攻撃の段階に入るにあたり、その前に、読書の際に念頭に置いておきたいことを、できるだけ整理したい。なぜ、司馬遼太郎はこれほどまでに乃木・伊地知に厳しいのだろうか。

 司馬さんは着目した人物、好みの人物について何度でも書き、何度でも話すタイプの作家で、ここまでは珍しくないだろうが、特定の誰かをここまで、こき下ろすというのは他に例を知らない。山県有朋にも批判的だが、こうまで厳しくはないし、褒めるときは褒めている。


 「坂の上の雲」には、彼が戦車隊に学徒出陣で駆り出された「昭和期の戦争」についての言及が、直接間接、無数にある。その多くは明治時代や日露戦争の「こういう部分が後世に悪影響を及ぼした」という文脈で語られる。とにかく目立つ。

 しかし、これまで私は何度もこの小説を読んできていながら、きっと青春の何年かを奪われた心の傷のようなものの噴出だろうという程度の感想しか持たぬまま読み過ごしてきた。


 最近になって、このことが妙に気になるようになった。きっかけは、今年の1月に伯父が戦死したテニアン島に慰霊の旅に行った前後から、先の大戦に関する多くの本を読み、生存者の語りを聴き、映画やTVのドキュメンタリーを観るようになってからだ。

 今ごろになって、あの戦争が自分のことのように思えてきたということだが、そうなってから「坂の上の雲」を読むと、この作品は彼が所属した陸軍を始め、当時の戦争指導者、当時の国家、そして反発を覚悟で申し上げれば当時の日本人をひっくるめて手厳しく非難した書であるように思えてきた。


 ご存じのとおり、いまこの国の政財界のお偉方は戦争を知らない中高年が占めるようになり、今の日本が上手く行っていないのは自分たちの責任ではなくGHQのせいであると称し、負ける前の強かったはずの日本にあこがれ、憲法も含め何もかも昔に戻したいらしい。

 このため、司馬遼太郎や、半藤一利保阪正康といった一昔前まで「戦争好き」と言われていた人たちが、反日自虐史観の持ち主であると誹謗中傷されている。特に、Wikipedia が無残である。

 司馬さん本人も、その作品も悪しざまに言われることが増え、その反動で乃木さんはもちろん伊地知参謀まで擁護されている。あおりを食らって、児玉源太郎秋山真之まで評価を下げようとする世の中になった。ちょっと長生きしただけで、こういう時代に生きることになるとは。


 ちょうど一年前、首相官邸は、「明治150年に向けた関連施策の推進」という施策(?)を打ち出し、ロゴマークまで創ってお祭り騒ぎを始めた。日付は去年の11月4日。明治天皇誕生日の翌日。後世への記念および警告を込めて冒頭だけだが掲げる。


 以下は私の記憶に基づくもので、探したのだが記録が見つからない。新聞か雑誌の記事で読んだものだと思う。見つけ出したら、改めて紹介します。来年は2018年。その150年前が、明治に改元した1868年だ。真之と広瀬、鈴木貫太郎らが生まれた年。

 その百年後が、いまから50年前の1968年。私は田舎のガキで、遊びまわっていたら、祖父が交通事故で急死した年。この年に、産経新聞が明治100周年の企画をやることに決めた。その一つが「坂の上の雲」の連載開始だった。

 この作品は、そういう戦後復興の時代背景があるためだろう、新しい国の建設の一役を担った青春群像という側面があり、実際にそう読まれており、それが今もって好評だ。なんせサービス精神旺盛な娯楽作家である。確かに面白い場面はたくさんあるし、魅力的な登場人物がたくさん出てくる。


 他方で上記のように、本人の表現では「過ぎたあの戦争」について、書かないではおられない。あまり残酷な戦闘シーンは、本人も意識して書かないと文中で言っている。新聞の連載小説なのだ。一般の読者に、その日一日、うんざりするようなものは書けない。それでも「雨の坂」で終わらざるを得ない。

 当時はまだ戦争から戻ってきた人や、遺族がおおぜい生きている。その人たちが読者なのだ。「坂の上の雲」は、その50年後の戦争好きのために書かれた軍記ではない。だから一部の者は敏感にそれを察して、罵詈雑言を浴びせるのに忙しい。国民作家は、時代とともに生きる。その時代が終われば、評価も変わる。


 けっこうよく知られた文章がある。私の手元の書籍名で言うと、「歴史の中の日本」(中公文庫)に収録されている。文体からして、講談や随筆など多様なものを、一まとめにした短編集だ。その一つに、「百年の単位」という章がある。

 この短文の題名は、ネットでウヨウヨしている輩が愛してやまない林房雄大東亜戦争肯定論」からとったもので、司馬遼太郎もこれを読み、「その視点において、このとおりだと思わざるをえない問題を多く含んでいた」という部分的な賛意を示すような感想を書き遺している。以下、青字が「百年の単位」からの引用です。適宜、段落や余白を入れます。


 ある日、大本営の少佐参謀がきた。おそらく常人として生まれついているのであろうが、陸軍の正規将校なるがゆえに、二十世紀の文明のなかで異常人に属していた。
 連隊のある将校が、この人に質問した。
 
 「われわれの連隊は、敵が上陸すると同時に南下して敵を水際で撃滅する任務をもっているが、しかし、敵陸上とともに、東京都の避難民が荷車に家財を積んで北上してくるであろうから、当然、街道の交通混雑が予想される。こういう場合、わが八十輌の中戦車は戦場到達までに立ち往生してしまう。どうすればよいか」

 高級な戦術論ではなく、ごく常識的な質問である。だから、大本営の少佐参謀も、ごくあたりまえの表情で答えた。
「轢き殺してゆく」
 私はその現場にいた。私も四輛の中戦車の長だっただから、この回答を直接、肌身に、感ぜざるを得ない立場にあった。(やめた)と思った。

 ここで司馬青年が「やめた」と思ったのは、続きを読むと参謀の命令に従うこと、つまり「ひき殺していく」ことを「やめた」ということだ。そのあと、「私はこのとき、日本陸軍が誕生したとき、長州藩からうけついだ遺伝因子をおもわざるを得なかった」と補足している。

 長州か。ひき殺されるのは嫌だな。この長州の遺伝子と、前出の陸軍参謀は、「坂の上の雲」や「殉死」における乃木・伊地知そのものだ。もう一度だけ言う。作者も読者も家族や戦友を失った世代が現役だった時代に登場した物語を、今われわれが読んでいるということを忘れたもうことなかれ。



(おわり)



嵐の前の雲  (2017年10月8日撮影)










































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