正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

作戦変更  (第160回)

 前回の続きです。以下は、「坂の上の雲」の「二〇三高地」の章および平塚柾緒「旅順攻囲戦」を参考に、時系列で、この慌ただしい1904年11月下旬の動きをみる。ちなみに、北の戦場では10月下旬に沙河の会戦が終わり、翌年1月に黒溝台の戦闘が始まる時期にあたる。ほとんど両軍とも雪と氷に埋まっている印象がある。

 乃木司令官が二〇三高地の攻撃へと作戦を切り替えたのが、11月27日の午前3時。えらく早い時刻だが、このころ彼は不眠症で悩んでいたらしい。この記録が残っているのは、推測ながら大本営に打った電文の時間なのかもしれない。長岡が井口に宛てた手紙に、この報をうけ「来客中なりしに覚えず快と叫び」とある。でもまだ快は早かった。


 前回、二〇三高地の砲撃は11月29日から(ロシア側の資料)と書いたが、二〇三高地の西南部要塞に対する歩兵の突撃は、早くも27日の夜襲から始まった。担当は第一師団で、午後7時30分に師団命令が出て、午後8時に香月三郎中佐の後備歩兵第二十五連隊が銃剣で突撃し、撃退された。また一連隊の逐次投入で失敗した。

 ここで補足すると、私はこれまで第三軍には第一、第九、第十一の師団があると書いてきたが、これだけではなく、他にも部隊がある。(1)後備歩兵第一旅団、(2)後備歩兵第四旅団、(3)野戦砲兵第二旅団、(4)攻城砲兵司令部。そして例の海軍陸戦重砲隊。


 「坂の上の雲」に名前が出てくる人を例にとると、上記の香月中佐の後備歩兵第二十五連隊は、(2)の隷下にある。(3)の旅団長は第七師団長の薩摩じいさん大迫尚敏の弟の大迫尚道少将。(4)の司令官が、志賀重昂先生に二十八サンチ榴弾砲の試射を見せた豊島陽蔵少将。

 そして(1)の旅団長が、友安治延少将。このブログで、ずいぶん前に(第36回以降)、八甲田山の遭難事件を話題にしたのだが、そのとき参照した丸山泰明著「凍える帝国」に、この友安治延さんの名が出てくる。新田次郎八甲田山死の彷徨」では、第一ページに仮名で「友田少将」として出ている。あの遭難事件の当事者だったのだ。


 事件は1902年に起きているから(子規の死んだ年だ)、関係者の多くが日露戦争の登場人物と重なっている。総理大臣はすでに桂太郎陸軍大臣は信さんを騎兵に選んだらしいと第一巻にある寺内正毅。口やかましい人だったらしく、「あとがき 三」では「徹底した他律者」と酷評されている。

 そういう人が大臣のときに、約二百名の死者を出す事件が起きたため、組織的な大騒ぎに発展した。最後の遺体が発見された時点で、「調査委員」が設置された。これは前任の陸軍大臣児玉源太郎が始めたものだが、間もなく寺内に交代する。寺内はそのまま日露戦争の間、ずっと陸軍大臣だったのだが、どうにも影が薄い感じがする。


 遭難したのは、青森の歩兵第5連隊の一中隊。同じ時に同じ場所で行軍演習をした弘前の第31連隊が無事成功させたこともあり、大きな責任問題になった。最終的には陛下の聖断を仰いだうえで連隊長の責任となった。津川謙三連隊長は八甲田に参加しておらず、行軍の指揮者は第2大隊第5中隊長の神成文吉大尉だったが、やはり連隊旗は重いのか。

 この第5連隊の上位組織が第4旅団で、その旅団長が上記の友安治延だった。新田さんの小説では、行軍の作戦会議に参加しているし、積極的だったとなっている。この旅団の上は弘前の第8師団で、師団長はもちろん立見尚文。立見中将が上京し、寺内総理と明治天皇に顛末を上奏した。友安旅団長も進退伺を提出した。


 陸軍の三役は、陸軍大臣(軍政)、参謀総長(軍令)、教育総監(教育)です。好古は後に教育総監になっている。この中で責任問題についての意見が割れた。参謀総長大山巌で、師団長と旅団長まで責任を取らせるまでとはいかず、連隊長とすべきだとして、この意見が通った。

 反対したのは教育総監野津道貫で、事件発生後の対応の遅さから、師団長と旅団長にも責任ありと主張した。現代日本で200人も部下が亡くなれば、野津案どおり、まず間違いなくトップ・クラスの首が飛ぶと思うが、この時期は日露戦争が現実の危機となっており、だからこその行軍であり、同じ年の日英同盟も同様だ。大型懲戒人事で揉めている余裕はなかった。


 この顔触れが日露戦争を運営した。お互い実績も性格も良く知り合った仲だ。危機意識も分かち合っている。この点、遭難事件のころ那須で隠居同然だった乃木さんは、もう若くもなく、いきなり戦場に出されて、さぞかしきつかったろう。児玉の第一回旅順出張でさえ、「旅順ボケの頭」で帰ってきたと書かれている。旅順は乃木で大丈夫と考えた者の責任は重い。

 その一人が児玉源太郎だ。もとより友人で、藩閥も一緒、大陸では総参謀長と軍司令官の間柄だが、そういう第三者でもわかる要素ばかりではなく、このタイミングで再び旅順に行くという、流石の松川参謀も呆然となっている企画は、児玉の責任感や内心忸怩たるところをよく表していると思う。


 このタイミングというのは、クロパトキンと連戦中という総司令部の窮地だけではない。二〇三高地に火が付いた。児玉が随行の参謀、「田中ァ」こと田中国重少佐と煙台の駅で旅順行きの汽車に乗ったのは、11月29日の午後8時。

 その田中少佐の証言が、平塚さんの前掲書に転載されている。「三十日に第七師団が二〇三の攻撃をやるようになっているから」、その結果を早く知りたくて駅に停まる度に確認していたそうだ。児玉と田中は、11月30日に二〇三高地の攻撃が始まる予定であることを知って汽車に乗った。


 Wikipedia日本語版に、こう書いてある。
第三軍司令部 司馬の作品を含め明治当時から現代に至る無能論の主な根拠には以下のものがある。
(1〜5は省略)
6. 旅順を視察という名目で訪れた児玉源太郎が現場指揮を取り、目標を203高地に変更し、作戦変更を行ったところ、4日後に203高地の奪取に成功したと伝えられること。(中略)目標を203高地に変更したのは児玉が来る以前、第三次総攻撃中で判断したのは乃木である。児玉ではない。

 批判精神は大いに結構だが、乃木と司馬の名誉のために反論しておく。先述の通り、また、別途「坂の上の雲」にも、第三回総攻撃における二〇三高地の攻撃開始は、乃木希典みずからの決断によるものだと明記されている。乃木が「我を折った」なんて書いてあるから、乃木信者かネトウヨか知らんが、怒ったのかな。でも嘘はいかん。それとも自分で読んでいないか。


 旅順では実際は30日を待たず、11月29日の朝に大迫第7師団長が高崎山に登って、松村第1師団長と作戦会議を開き、その日の午前中には砲撃を始めている。もっとも歩兵の突撃は田中情報どおりで、30日の午後4時に始まった。

 そして同日の「夜十時 奇蹟が現出した」。最初に「奇蹟」を演じたのが、前出の後備歩兵第十五連隊(高崎)の「香月隊」である。後備というのは、軍人のOB会みたいな集まりで、第八巻では「応召の老兵ぞろい」と書かれている。この隊が高崎山を落し、二〇三高地に初めて取りついたのだ。

 そのすぐあとで歩兵第28連隊(旭川、連隊長は村上正路大佐)の「村上隊」も、悲惨な激戦の末、二〇三高地の頂上にたどり着く。そして、この中間報告が汽車に揺られる児玉に届いてしまうことになる。




(つづく)




春も間近か。
コブシの蕾。
(2018年1月6日撮影)







































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