正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

土城子  (第168回)

 文庫本第五巻「二〇三高地」では、児玉源太郎の一行が旅順の地に到着するはずの12月1日、乃木希典は早朝に「わしは前線視察に出かける。児玉とは土城址附近で落ち合うことになるだろう」と軍司令部に言い残して出かけてしまった。

 この言い置きが不鮮明で、司令部では誰も、乃木司令官がいつごろ土城子付近にいるのか説明できずにいる。児玉は軍司令官の居場所も知らんのかと叱りかけたが、できれば二人だけの場所で会いたいと思っていたので、かえって幸いであったとある。


 乃木さんは児玉に会いたくない気分であるという心理描写があったが、確かに早く確実に会いたければ、児玉が予想していた通り、司令部のある柳樹房で待っているのが良策だ。鉄道は一本しかないし、大庭参謀が報告と出迎えに行っているくらいだから、この日に来ることは分かっていたはずなのに、乃木さんは離れた。

 もっとも、この時期、乃木さんにとってみれば、前線視察は苦行とでもう言うべき、毎日のように繰りかえす仕事になっていたのかもしれない。「殉死」にしろ「坂の上の雲」にしろ、そのごく一部しか描かれていないはずの日本兵の死に方は、尋常のものではなかったと思う。真偽の程は定かではないが、そういう報告を読んだことがある。


 この日、乃木さんが出かけた土城子は、巻末の地図に載っている。鉄道沿いにある柳樹房の西方で、旅順街道が通過している。のちに乃木と児玉が会う曹家屯が、その中間にある。土城子という地名は、この場面が「坂の上の雲」における初出ではなく、第二巻「日清戦争」に出てくる。

 秋山好古は、戦略兵火である騎兵が、歩兵各部隊に少数散在していても機能しないとし、上官である第一師団長の独眼竜山地元治に、師団直属の独立部隊にするよう進言した。山路がこれを容れ、第一師団は二つの歩兵旅団のほかに(そのうち一つが乃木希典旅団長)、騎兵第一大隊を置き、歩兵中隊も加えて「秋山支隊」という独立集団を持った。


 右図は、ここで何度も活用させていただいている「アジア歴史資料センター」(アジ歴)の資料です。

 これは国のサイトです。秋山好古が1894年11月18日付で、軍司令官大山大将殿(第二軍司令官の大山巌)に対して、「捜索騎兵隊長」の肩書で出している報告書もあり、その中に「土城子(趙家屯)」という地名が載っている。


 この地名と肩書が「坂の上の雲」にも出ていて、秋山大隊長は旅順の索敵に出て報告している。日清戦争当時の旅順は、少し前まで天然の良港に過ぎなかったが、ドイツの進言により要塞化されていた。

 フランスの提督も称賛した近代要塞だったが、好古が敵情視察したところ、一万二千の兵は金州や大連で負けて逃げ込んだ兵が多く、士気は低いとみた。


 秋山隊長の報告書によれば、攻める方法は二つあるという献策である。一つは、夜明けに軍の主力をもって、旅順本道から水師営を経て、旅順市街に突入する。水師営も旅順の要塞化に伴い開発された街区らしい。仮に失敗しても北側に逃げやすい。この進路は、後に白襷隊がたどった。「軍の主力」には、程遠かった。

 もう一つは、まず旅順練兵場の西方にある砲台二つを占領するため、軍の主力を土城子から石嘴(せきし)をへて、水師営西方の高地より進入させる。地名は書いていないが、後に高崎山と名付けられた方面にあたる。このあと好古は寡兵を以て、実際に土城子まで兵を進め、酒を飲んだ挙句、「わしは旅順に行けと言われとるんじゃ」と無茶を言って進軍した。


 実際の軍主力による攻撃は、その三日後にあたる11月21日で、大山の第二軍は一日で旅順を落した。好古は椅子山という、二〇三高地の東側にある右翼方面を担当した。日露戦争秋山好古は、「わしは北へ行く」と言い残して金州から得利寺に向かい、旅順は乃木が担当した。

 さて、映画でもドラマでも、土城子から西方に戻る乃木と、柳樹房から東方に探しに出た児玉が曹家屯で出会うシーンは、忠臣蔵のごとく、決まり事のように雪が降っている。「髭が白くなったな」と児玉が言った。乃木さんは、この時期、ひどい不眠症に悩まされている。しかし、旅順要塞のロシア軍とて、全く補給も増援もない。もうひと頑張りであった。



(おわり)



子規が暮らした根津の梅  (2018年2月19日撮影)











































.