正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

厩の人影  (第171回)

 米国人の従軍記者、スタンレー・ウォシュバンの名は、「坂の上の雲」文庫本第五巻の「二〇三高地」に出てくる。その箇所に、一戸兵衛が語ったウォシュバンの思い出話が収録されている。その文章は、私の手元にあるS・ウォシュバン著「乃木大将と日本人」(講談社学術文庫)に出てくる。

 ウォシュバンの著作は、原題が”NOGI”、昭和十六年に「乃木」という題名で創元社から翻訳、出版された。文庫化にあたり、題名を上記に改めたとある。司馬遼太郎は、原本を読んだらしく「乃木」という書名を挙げている。翻訳者は長岡の出身で、山本五十六と同級生だったという目黒真澄。格調高い訳文である。


 目黒さんはウォシュバンの為人を知りたくなったようで、翻訳に着手してから、一戸老を訪った。そのときの一戸さんの回想が、「坂の上の雲」に転載されているわけだ。ほぼ、同じ文章表現です。

 「ウォシュバンという男は、当時二十七、八歳の愉快な青年であった。非常に乃木さんを崇拝したばかりではない。Father Nogi と呼んで、父のごとくに思っていたようだが、果たしてこういうものを書いてくれたか」と一戸さんは喜んでいたらしい。


 一戸はウォシュバンが母国に去る際、最後に会った人物でもある。すでにポーツマスで講和が成立していた。乃木大将は講和条件の内容を知らされたとき、まず人事不省のように棒立ちとなり、続いて軍帽を床にたたきつけたというから凄い。

 乃木さんは露軍を叩き潰すまで戦うつもりでいたらしい。それだけが死んでいった多くの部下に報いる術であると考えていたのだろう。乃木将軍は急病と発表され、役目を終えて帰国するウォシュバンら従軍記者たちも、面会謝絶で帰国の挨拶ができなかった。


 そのかわり、伊地知の後任で第三軍の参謀長になっていた一戸が、晩餐会を開いてくれた。また、別れの日には軍楽隊に「星条旗よ永遠なれ」を演奏させ、途中まで騎馬で送ってくれた。別れてからウォシュバンが振り向くと、一戸さんは白いハンケチを振っていた。

 乃木・一戸の両人と会ったお祝いの日のことも書いている。日本海海戦バルチック艦隊が滅びた翌日。このアメリカ人青年は感激屋でもあったらしく、新聞記者の文章というよりは、講談調といったほうがよい。以下、一部、現代仮名遣いに改めつつ引用します。


 「この席に列したもの、誰かその光景を忘れることができよう。白亜の室の奥深く、コップを手にして、厳として上席に立つ沈静の姿」、これが乃木さんだ。続いて、「その右には将軍の参謀長、前の第六旅団長一戸老がおる。彼が旅順口堅塞の一つとして有名な、東鶏冠山P堡塁の占領に、自ら最後の強襲を指揮して雷鳴を轟かしたのは、わずか数か月前のことである」。

 このあと散会し、日が暮れて暗くなりかけた帰路、ウォシュバンは構内を出ようとして人の気配を察した。「厩の暗い影の中に、長靴に褐色の外套の人が立ち、粗削りの馬漕に寄り添って、太った栗毛の馬の頸と鼻を撫でてやっている姿が目に付いた。

 彼は駿馬の頭を我が胸に引きつけ、一方の手に菓子を持って、物欲しげに差し伸べる口許へ入れてやる。彼が暗がりから出てくると、残んの明りがその静まり返った貌の上に落ちる。それは乃木大将その人であった。旅順口において十万の兵を犠牲にした将軍の姿であったのだ」。


 乃木さんは旅順要塞を落した際、敵将ステッセルから白馬を贈られている。軍隊はこういうとき手続きが必要だそうで、すぐその場では受け取らなかったらしい。上記の馬は栗毛とあるから別の馬だ。ただし、従軍記者たちは、その白馬に乗ってもらい騎乗の乃木さんを撮影した。「今まで見たことのない立派な肖像になった」。

 そこでウォシュバンはそれを引きのばして額縁におさめ、同僚の日本駐在員に送って、乃木男爵夫人に手渡してもらった。乃木夫人は、日本婦人のみだりにみせない熱涙をはらはらと流して、こう言ったという報告が返ってきた。

 「戦になってから主人に会うのはこれが初めてです。戦争が首尾よく終わるまでは、自分のことは死んだものと思え、そのときまでは音信(たより)をするな、自分も音信はしない」。そして「その言葉通りでした」。


 私はサンフランシスコに二年ほど駐在したことがあるのだが、日用品のほとんどは、すぐ近所にあったメイシーズ百貨店で買っていたのを覚えている。そこで買った枕カバーを、今もまだ使っている。このメイシーズを育てたストラウス夫妻は、出張先のイギリスからアメリカに戻る途中、災難に遭った。ウォシュバンは、その件にも触れている。

 「われわれ米国人が、汽船タイタニク号沈没の際、その夫と死をともにせんことをねがったストラウス夫人を讃嘆するとすれば、この貞烈な日本婦人に対しても、同じく敬虔の念を持ってせねばならぬ」。写真は、その最期の部屋の外観です。


 乃木さんは本当に馬が好きだったようで、いま乃木神社の境内横の旧宅そばに、当時の厩が残っている。ステッセルの愛馬も無事、日本海を渡ったようで、乃木さんは彼の頭文字を採り、「壽號」と名付けてご自宅で飼っていた。寿司の「壽」だから、「すごう」なのだろう。
 
 後に総理大臣になった幣原喜重郎は、軍縮会議のためワシントンにいったときウォシュバンと会い、親しくなった。帰国後、”NOGI”の原書を送ってもらい、学友の目黒真澄に手渡して訳してもらった。それがこの本です。



(おわり)




乃木さんの厩。字が薄いが、壽號の部屋。
(2018年3月4日撮影)









今年の東京は桜が早かった。谷中の天王寺にて。
(2018年3月28日撮影)


















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