正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

「旅順」から考える  (第175回)

 しばらく更新が止まりました。乃木さんについての考えが、うまくまとまらないからです。とはいえ、このまま忘れたり、放置したりもしたくないので、少し肩の力を抜いて更新いたします。まずは先般、乃木神社にお参りしたときの、こぼれ話からです。

 多くの神社仏閣は大変、商売熱心で、これは参拝客も現世利益ばかり求めてくる様子ですから、需要と供給のマッチングはできているようです。乃木神社社務所も、コンビニやキヨスクのように繁盛しておりました。

 その店頭に、著者も書籍名も確認しませんでしたが、新書版の本が置いてあって、帯に「坂の上の雲」は嘘ばっかりと書いてありました(ちょっと表現が違っていたかもしれない)。


 嘘ばっかりというのは、強い表現です。ぜひ、作者存命時に出版してもらいたかったものですが、そういう度胸はないのでしょう。私もつい、社務所に赴いて、当方は四十年来の「坂の上の雲」の愛読者であるが、ちょっと話がある、と言いたくなるほど目立つ場所に置いてありました。しかし、売り子はどうみても学生アルバイト風の娘さん。ハラスメントにしかならない。

 あれだけの大作に対して、嘘つき呼ばわりをする以上、著者も出版元も、よほどの証拠や論証が必要です。こんな帯に魅せられて買うような読者相手の薄い新書で、そんな離れ業ができるとも思えない。これは「そういう人たち」の仲間内だけで完結する、一種の掛け声なんでしょう。


 司馬遼太郎の短い随筆や、講話の記録と思われる喋り言葉の記録を集めた本に、「歴史の中の日本」(中公文庫)があります。前にもどこかで引用した覚えがある。「私の愛妻記」という異色のエッセイが含まれている。

 内容は雑多な本で、愛妻記に加え、今回のタイトルである「『旅順』から考える」という、たぶん座談か講演の議事録らしきものも収録されている。冒頭は、こういう感じで始まります。

 「『旅順』から考える」というのが題だそうですが、べつに語りたいから語ろうとしているのではない。編集部がそういう題をつけて、私の目の前にすわりこんでしまっているから語るわけで、多少物憂い思いがないでもありません。

 
 まあ、確かに「奉天」から考えるでは客は呼べまい。物憂くなるような話柄だからこそ、編集部もすわりこんで頑張るのです。具体的には、「乃木さんが好きだというのはどうしようもないことで」という一節が示すように、念頭にある論敵は、彼の表現を借りれば、乃木信者なのだ。「是非の論をたてるつもりはありません」と続けている。織田信長の最期の言葉が、「是非もない」だったような。

 この段落の最後に、「私自身の好悪をいえば、ひょっとすると悪より好にちかいかもしれません。しかし父親や伯父に乃木さんをもちたいとは思いません。」とあるのは、確かに引用した記憶があります。自分は信者には、なれないという意味だと思います。そのあとに、こういう文章もあるからです。

 乃木さんは死後、神にまつられた。乃木論をやったひとが、「神様の悪口をいうとはけしからん」という投書に接したそうですが、私はむしろその投書のぬしのほうに微笑をむけます。好悪の好というものは、そこまでいくべきだと思うからです。

 実際、異なる宗教や宗派に、反論する程度なら世間に珍しくないし、暴力的でないのなら、信仰や言論や表現の自由です。「けしからん」というのは思想信条の議論ではなく、感情の発露ですから、是非もない。第三者としては、せいぜい笑って過ごすしかない。私が社務所に、ねじ込んではいけない。

 今回話題にするのは、上記の「父親や伯父」の箇所と、そのあとの「神にまつられた」という箇所の、間に挟まっている部分です。これは単に乃木論ではなく、司馬遼太郎の歴史および文芸に対する姿勢そのものだと考えています。そのまま青字で引用します。


 乃木さんについてはまだ語るのは難しい。亡くなってまだ六十余年でしかないからです。歴史は百年ではじめて成立するというのは本当ですね。たとえばその人物の書生や女中だった人の孫がまだ生きていてその人物の身辺のことをなまなましくきいていたりするようでは、まだその人物の死体はなま乾きで、どうもむずかしい。それらが全てこの世にいなくなったとき、はじめて評価が確定すると思います。


 この死体が生乾きという強烈な表現は、一度聞いたら忘れられないものです。必ずしも「評価が確定する」とは限らないという反論が出るであろうことは、本人も承知の上のことと思います。

 そして、それは歴史学や宗教における評価というようなものではなくて、もう余計な湿った情報が入ってこないところまで来て、司馬遼太郎の自分自身の人物評価が定まるということだと私は理解しています。

 そういうふうに見れば、幕末維新のころから百年経ってようやく、「竜馬がゆく」ほか、その当時に活躍し、ほとんどは非業のうちに斃れ、御維新の果実をむさぼることもなく去っていった人たちを主人公にした、多くの小説が生まれてきたということになります。


 それならば、なぜ、まだ他界して六十年しか経っていない乃木さんを、「殉死」や「坂の上の雲」で、しかも相当手厳しく描いたのかという疑問が湧きます。ほかに題材が無かったかといえば、例えば「世に棲む日日」も、「花神」も、「翔ぶが如く」も、その後の作品です。これについては、以前、別の箇所かもしれませんが、話題にしたのを以下、再現します。現代に関わる問題ですから。

 「坂の上の雲」は、明治100周年を記念して書かれました。今年は、明治150周年と騒いでいる連中がいるのは周知のとおりです。大政奉還の翌年が明治の始まりで1868年、「坂の上の雲」の連載開始は、正確な日付を知りませんが1968年ごろ、今年が2018年です。この明治何周年を、お目出度がる人たちは何物なのでしょう。よほど明治が好きなのですね。チョコレートは明治。


 この百周年騒ぎは、私が小学生のときです。ちょうど高度経済成長のど真ん中。何でもいいからお祭り騒ぎをしたいというのもあるかもしれません。まだ敗戦の傷跡は、その被害に遭った人たちが無数にいた時代ですので、政治的・軍事的にも元気だったころの景気のよい話が、歓迎されたのかもしれません。でも、それらは新聞社や出版社、そして読者側の事情です。

 それはそれで大事なことですが、当時まだ「生乾き」の話題を、このタイミングで、なぜ司馬遼太郎は選んだのか。一言で言えば、先の大戦に対する批判です。

 その戦争は、今なお生乾きなので正式名称さえ定まっておらず、かつては支那事変および太平洋戦争と学校で教わったのですが、アジア・太平洋戦争と呼ぶ人もいるし、大東亜戦争という忌まわしい言葉を掘り出してきて使っている人々もいる。


 先の大戦に対する批判だろうというのは、私の身勝手な解釈ではなく、そういう観点から「坂の上の雲」を呼んでいただければわかりますが、原爆もノモンハンも出てきますし、日露戦争と先の戦争との比較あるいは類似といった話題が随所に出てきます。連載中の読者の殆どは、その戦争の時代を知っていました。うちの祖父母や両親も含まれますが、政府による惨禍のために、たいへんな損失や苦労がありました。

 乃木・伊地知の第三軍が強行した旅順攻囲戦は、それと同様のことが先の大戦においても、ノモンハンにしろ、ガダルカナルにしろ、私の伯父が戦死したマリアナにしろ、特攻が始まったフィリピンや沖縄にしろ、無数の無益な殺生が続きました。根本的に、これは勝ち負けの問題ではない。一人一人の命を何とも思っていない者でなければ、とうていできない仕打ちです。


 司馬遼太郎はそう考えたはずだし、私はそう読みました。乃木さんが、どれほどの人格者であろうと、すぐれた詩人であろうと、二人の息子が同じ戦争で戦死するという悲惨な経験をしようと、彼の命令で死んでいった若者たちの命も、遺族が失った暮らしも戻りません。

 司馬さんが乃木希典にたいし個人攻撃や、人格の冒涜をしているとは思いません。彼が糾弾したのは、その教訓を活かすことなく、さらなる悲劇を招いた生乾き過ぎる連中です。だから、東条やら近衛やら個人名は出て来ないが、言いたいことは鮮明であると考えます。

 したがって、いま明治150周年とはしゃいている政府や、「坂の上の雲」は嘘ばっかりと連呼して喜んでいるような連中は、このまま放置すると、また同じようなことを起こします。彼ら自身は、乃木さんのような辛労辛苦を、戦場で耐え抜く意思も能力もありません。幸い、日本のサイレント・マイノリティは、これらの騒々しい思想的変人とは一線を画していると信じています。



(おわり)




一緒に泳いだ亀  (2018年7月14日撮影)



























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