正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

柳樹房  (第176回)

 明治三十七年(1904年)十二月一日は、児玉源太郎にとって多忙を極める日になった。このブログで前回、「坂の上の雲」は「先の大戦批判でもある」としつこく書いたのは、今回の児玉の出張も、そういう観点から読んでみたいからだ。

 児玉を乗せた汽車が、満洲から旅順に向かって南下していた夜、大迫の第七師団と松村の第一師団の先鋭が奪った二〇三高地は、コンドラチェンコとトレチャコフの要塞軍に奪い返された。それに先立ち、未明二時半ごろ、遂行の田中国重少佐は、停車中の金州の駅で、二〇三高地占領の速報に接した。児玉も起きていた。


 遼陽会戦中の児玉の第一回旅順行は、少なくとも「坂の上の雲」には、ほどんど情報がない。比べてこの第二回は、たいへん詳しいし、臨場感がある。お付きの田中少佐が、戦後に語り残したか、書き残したのだろうと思う。しかも彼らは良いコンビであったようだ。

 この「田中ァ」は、薩摩の人と紹介されているが、そもそも児玉源太郎は、あまり薩長その他の軍閥には、とらわれていないようで、乃木との情誼は個人的な要素が大きいように思う。同郷の山縣を避け、彼が仕えている大山は薩摩の人だし、部下の松川は仙台、井口は静岡、この時期に旅順に派遣されている福島安正は信州松本の人。


 10月30日の児玉は、こうして最初は吉報に接したものの、次の大連駅では乃木軍の大庭参謀から、「占領」は失敗に終わったと聞き、洋食どころではなくなった。さらに、そこから始まる第三軍の行軍跡に、墓標が並んでいるのが、汽車の中からも見えてしまい、怒りに拍車がかかった。柳樹房の駅に着いたのは昼頃だった。ここに第三軍の司令所がある。

 当時の陸軍の儀礼は知らないが、儀礼というより作戦会議のために来ているのだから、乃木司令官が前線にいる以上、伊地知参謀長が出迎えに赴くべきであると思う。しかし、彼は神経痛のため、柳樹房で横たわっていたとある。大連まで大場参謀が出かけているのだから、この時間帯に児玉が来るのは分かっていたはずだ。


 しかし、執務室で座っていることさえ、できなかったらしい。この時期、第三軍の心身の疲労は、その極に達していたはずで、旅順陥落後は伊地知参謀長が更迭されているし、その二か月ほど後に、東京第一師団の村松務本師団長が、急逝している。

 松村中将は、二〇三高地が落ちたときには元気で、この山を「鉄血山」と名付けようと勇壮な提案を出していた。直接な死因は存じ上げないが、きっと過労死なのだろう。

 乃木・伊地知が「無能」であるとしたら、その論拠は作戦や戦闘指導そのものというより、この働くことさえできない参謀長を、日本国の命運がかかっている戦場の責任者に置いたまま過ごしていることにあると思う。戦闘の途中で交代というのは、確かに士気を下げるかもしれないが、死線にいる将兵にとって、参謀長が動けないのではもっと残酷だろう。

 
 ガダルカナルの戦いでも、戦闘継続中に参謀長や司令官が病気で交替している。だが、どういう力学が働いているのか、第三軍首脳の顔ぶれは変わらない。児玉の出張は、乃木の指揮権の借用だったと、司馬遼太郎は表現しているのだが、この先の展開からすれば、むしろ実質的には伊地知の職権の剥奪に近い。

 その伊地知参謀長も、さすがに児玉参謀総長が踏み込んできたのを見て、立ち上がった。第一印象があまりに悪い。さらに、例の弾丸と兵数が足りないという議論から始めてしまったため、児玉は途中で見放し、乃木に会いに出かけてしまった。

 この二人が雪の中で再会する場面も、田中少佐の記録によるものだろう。だたし、このあとの高崎山の乃木・児玉会談は二人だけで行われており、随行者もやり取りを知らない。


 もう日が暮れるというのに、児玉がこれから作戦会議を開くと言い出した。田中はお休みになられたほうが、と引き留めたのだが、疲れ切っているはずの児玉のほうが梃でも動かない。

 会議に向かう途中、第七師団長の大迫尚敏中将に会う。一万五千の北海道の強兵は、千人に減っていた。同師団は前日の11月30日も二〇三高地に総攻撃をかけ、「死屍累々」の惨状を呈している。

 旭川の第七師団は、仮想敵国ロシアから祖国を護る責務を帯びている。日露戦争では旅順と奉天で戦い、太平洋戦争の初期には、アッツとガダルカナルで戦った。仙台の第二師団も、黒木の第一軍に属して夜襲で鳴らし、太平洋戦争では蘭印、ガダルカナルビルマで戦った。北国の若者に対する薩長政権の酷烈さは、筆舌に尽くしがたい。


 夜の会議で、児玉源太郎は黙然と座ったままの乃木希典の前で、矢継ぎ早に作戦命令を出した。進軍する歩兵の掩護のため、間断なく重砲で援護射撃せよという段になって、砲兵中佐、佐藤鋼次郎は「陛下の赤子を、陛下の砲をもって撃つことはできません」と抗命しかけた。

 「児玉は突如、両眼に涙をあふれさせた。この光景を、児玉付の田中国重少佐は生涯忘れなかった」と司馬遼太郎は書いている。児玉の反論は、「その場合の人命の損失は、これ以上この作戦をつづけていくことによる地獄に比べれば、はるかに軽微だ」というものだった。砲撃は敵襲を防ぐ唯一の手段だと主張してやまない。


 司馬遼太郎が「坂の上の雲」にも書いているように、高級軍人は敵を殺す権利があるというよりも、部下を死なす権利を持つという特異な職務だ。その職責を果たすために、この職権を発動するにあたっては、意図的に作戦上、味方に犠牲者を出すのを避けることができない。乃木・伊地知には、これに堪える力がない。

 ちなみに、太平洋戦争の終盤は、この権利濫用により、「この作戦を続けていく」ことが至上命令と化して、日本人も外国人も、軍人も民間人も、膨大な数の犠牲者を出した。旅順の児玉源太郎は、その辛苦に堪えたが、その寿命を縮めた。第三軍は児玉の宿を準備していたのだろうか。不明だが、児玉は乃木の部屋で寝た。この友人は、こういうとき、危ない行動に出かねないのだ。



(おわり)




東京の夕焼け
この時期に富士山が見えるのは珍しい
(2018年8月18日撮影)




































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