正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

最前線  (第177回)

 12月1日の作戦会議というか児玉の独壇場の最後のところで、児玉源太郎は先任参謀の大庭中佐に対し、前線へ敵情視察に行けという命令を下している。伊地知は外された。

 明日自分も行くから、そのとき報告せよと言われては、行かねばなるまい。大庭以下三名は、挙手をして前線視察に出かける。このときの乃木の動作と、ふくれている児玉の風景が描かれている。

 乃木は立ち上がり、かれらのそばにゆき、一人一人に握手をした。生命の危険率は、きわめて高い。乃木はそれについて、「十分に注意するように」と、やさしく言った。その間、児玉は、田中国重少佐の観察ではそっぽをむいたまま椅子から立ち上がりもしなかった。


 私もようやく私なりに、乃木さんという人物の不思議な魅力のかけらぐらいは、分かってきたような気がする。田中少佐は、前後の記録を見ても、児玉参謀総長に対して、その能力から人柄まで、心酔していたのは間違いないと感じている。

 その田中さんの観察結果でも、乃木はやはり将であり、児玉は子供みたいなところがあって、大山や乃木のような人心を得ている将がいてこその活躍ぶりなのだ。誰より児玉が、それをよく知っている。


 菊村到に「提督有馬正文」という優れた伝記があり、私の愛読書の一つです。太平洋戦争時の海軍軍人。有馬の死を特攻作戦の引き金のように書いている者がいるが、前掲菊村書を、顔を洗ってからよく読むといい。

 有馬正文は、上官にも遠慮なく自説を主張したりするなど、必ずしも乃木希典とそっくりな軍人ではない。ところが、生前の有馬の人となりを菊村さんが訊いて回ったところ、少なからずの人が「乃木さんみたいな人」と答えた。


 共通点は、大変な部下思いで、若い人に対する物腰も丁寧だった。ところで、海軍参謀だった千早正隆氏によれば、太平洋戦争時の陸海軍は、たいてい何処に行っても仲が悪く、戦後の戦友会などでさえ、同じ戦場でも陸海別々。

 そんな時代の海軍さんが、上司や友人だった海軍将校を、どう読んでも誉め言葉という文脈で、陸軍の乃木さんに例える。東郷さんではない。弥助どんでもない。他に言いようがないらしく、他の言いようも要らないらしい。


 翌日の12月2日、児玉が朝6時ごろ起きたとき、乃木はいなかった。一時間ほど前に、高崎山に出掛けてしまっていた。ここでは重砲陣地の転換工事という、児玉が命じた大作業が始まる。第一師団や第七師団の司令部があるところで、場所によっては敵弾も届く。このころから、後にステッセルも評価した工兵の活躍が本格化している。

 児玉は朝飯のあと、「田中ァ」と呼んで「出かけよう」といった。田中少佐は、心得たもので馬の準備を終えている。外に出ると福島も待っていた。児玉は柳樹房より、もっと前線に近い水師営に軍司令部を置くべきではないかと言った。水師営の歌に、「棗の木 弾丸跡もいちじるく」とございます。


 このシベリア横断男も、児玉の扱いには慣れているようで、「閣下のお口から申されない方がいいでしょう。福島が、折をみつけて乃木閣下に自分の意見として申します」と応えた。こういう上司を持つと、部下も何かと大変だ。

 さて、平塚柾緒「旅順攻囲戦」によれば、このあとも激戦が続いているのだが、「坂の上の雲」では、12月1日から4日まで、乃木軍の申し入れをロシア軍が受け入れて、休戦期間になっている。


 通常この期間中は、日本軍が遺体収容を行い、ロシア軍は要塞の修理などを行っていたとある。今回の休戦期間は児玉にとってグッド・タイミングで、前線に出て敵情視察や自軍との議論が十分にできるし、重砲の移動も敵襲の脅威なく進めることができるだろう。もっとも、児玉は12月3日の高崎山でも癇癪を起し、参謀の懸賞を引きちぎったり怒鳴りつけたりしている。

 そして、12月5日が来た。休戦説が正しいとしても、この日からは再び二〇三高地の陣取り合戦が始まるのだ。児玉は福島と田中らと共に、二〇三高地の近くの丘に登った。初登山の現地参謀たちが、「ぞろぞろ」と付いてくる。

 その近くの椅子山から、ロシアの砲弾が飛んできた。山頂に達した児玉が双眼鏡を覗くと、百名足らずの日本兵が、二〇三高地を死守している。「あれを見て心を動かさぬ奴は人間ではない」と、児玉は福島に言った。



(つづく)




拙宅マンションからの夕焼雲  (2018年8月18日撮影)




































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