正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

オイ田中  (第178回)

 「坂の上の雲」の文庫本第五巻「二〇三高地」に出てくる児玉源太郎の「田中ァ、何をぼやぼやしている」、「おぬしは外国の観戦武官か」という癇癪玉の破裂は、その前段の続きのはずなので、時は1904年12月5日、場所は「二〇三高地のちかくの丘」であるはずだ。この日、児玉総参謀長は、二〇三高地から旅順港を見渡せることを確認する。

 この怒鳴られ役の田中国重少佐が、私の手元にある「名将回顧 日露大戦秘史」(朝日新聞社)の「陸戦篇」に出てくる。この本は、冒頭に日露戦争の陸戦の概略説明があり、それに続き日露大戦の体験者15名による座談会の記録という構成になっている。会場は帝国ホテル。


 この座談会および同書の出版は、昭和十年(1935年)と書いてある。その前年に陸軍士官学校事件、翌年に二・二六事件が起きており、軍国主義ど真ん中の時代。朝日新聞社もかつては、こういう報道姿勢だったわけだ。もちろんこの種の座談会は自慢話の花盛りで、都合の悪いことは言わない。

 田中國重陸軍大将(出世したなー)も、「児玉参謀長と乃木さんとの会見の内容については、私から公然と話ができないような内容がたくさんあります」と劈頭で語っており、墓場まで持って行ったらしい。

 ところで、彼の日露戦争時の肩書が、満洲総司令部の参謀ではなく(総司令部参謀として、他の人が参加している)、「大本営参謀(少佐)」になっている。お目付けのような役割でもあったのだろうか。


 児玉と田中は日露戦争前からの旧知の間柄で、冗談も交わせるような仲だったらしい。「坂の上の雲」の田中少佐は、怒鳴られ役であると共に、児玉のからかい役でもあるのだが、実際そのとおりだったのかもしれない。田中が児玉に心酔していたことは、この本を読むとよくわかる。

 なお、上記の冒頭の解説に、旅順攻囲戦での乃木将軍の言動が若干、記載されている。将軍は大本営や総司令部から、やいのやいのと言われて辛い立場にあった。

 第二回総攻撃を前にして、乃木司令官は第七師団の大迫師団長を電話口に呼び出し、「貴官にして躊躇するならば自分が陣頭に立って突撃する」と激しい口調で言い、第九師団の大島師団長に対しても、軍司令部に歩兵二大隊を送れ、自分が指揮すると命令した由。


 野津や乃木は、この時代としては既に老人と呼ばれる年齢に達しているのだが、この出席者たちによると鍛え抜いた体は頑健そのもので、田中少佐の目撃したところでは、旅順の乃木さんは常に先頭に立って、坂をスタスタと登ってゆき、喘息持ちの参謀長は付いていけなかったとある。

 もしも、私のような素人でも、当時の乃木さんを「無能」と呼ぶかどうか検討する余地があるとすれば、この病気がちの参謀長を、全軍のため早々に交替させるべきだっただろうと思う。でも「それが乃木じゃ」と児玉は言うのだろう。田中元少佐によると、通常の乃木さんは、冗談を飛ばしては部下を笑わせてばかりの開放的な性格であったらしい。以下、「田中大将」の発言に拠る。


 旅順に向かうにあたり、児玉が遺書を託したのは、台湾総督時代からの部下だった関谷貞三郎秘書官であった。11月29日、煙台発、遼陽泊。田中少佐が随行を命じられて、同行している。児玉は眠りもせず、話しかけても応えず、二人黙って「ちょうど人形が二つ乗っているような感じ」だった。

 12月1日午前3時、汽車が金州駅に着いたところ電報が届いており、児玉大将に読めと言われて読むと、「第三軍は二〇三高地を確実に占領せり」とあった。児玉は「オイ田中、葡萄酒を出せ」と喜んで乾杯した。祝電も打てと言われて、第三軍に占領を祝すという電報をうった。


 明け方に大連に着き、大庭参謀に電話をかけて、「おめでとう」と言うと、「取り返されて、てっぺんで睨みあっている」という返事がきた。大将に報告すると、「オイ田中、朝からこんな洋食を食う馬鹿がどこにあるか。食いたければ貴様が食え。おれには茶漬けを持ってこい」と、「えらい勢いで叱られたのです」。以上のどこに、叱られる要素があるのであろうか。

 第三軍司令部に着いたが司令官は不在で、福島少将が高崎山にいると聞き、電話をしたところ「高崎山はお悔み座敷だよ、一刻も早く総参謀長に来てもらわなくちゃならぬ」という次第だった。

 この山に、第一師団と第七師団の司令部がある。雪がちらつく12月1日、児玉と田中は前線に出たが、途中、「沢山の墓標」が立っているのを見た児玉がまた田中を叱り、「田中、よそへ移せ」と命じた。


 児玉総参謀長は、高崎山の「例の穴倉」に、一週間ばかり滞在した由。大迫中将が、「どうかもう一度、第七師団に二〇三高地を攻撃させて頂きたい」と、涙をこぼしながら訴えた。児玉は沈黙を以て大迫を追い返したが、その直後に「田中、大迫にもう一度やらすようにせい」と言われた。少佐なのに、小間使いばかり。

 そのあとになって、乃木司令官が来た。穴倉の中、二人はアンぺラの上にあぐらをかいて、「時には激語、時には落涙」と語っているから、田中少佐は同席していたことになる。しかし、その内容を話す言葉はなく、「どうかお許しください」と座談の席で謝っている。


 偵察したところ、百名ほどの日本兵が、二〇三高地の西南角の山頂に陣取っているのが分かった。先ほどの「睨みあい」が続いているようであり、児玉はどうやら、北東角にロシア軍ありとみたようで、二十八サンチ砲による夜間砲撃を命じた。第三軍からは、同士討ちのおそれありと懸念が出たが、総参謀長は「十五分間隔に一発の割合で撃て」と厳命した。

 その西南角から旅順港が見えるというので、三名の決死の偵察隊を出した。幸い無事戻って来て、旅順港内に敵艦が七隻いると報告した。これによれば、二〇三高地の占領前から、旅順港が丸見えでありますのは、分かっていたということになる。問題はそこに観測所を置く計画なのだが、何度、設置しても敵砲に吹っ飛ばされてしまう。12月2日、第七師団に攻撃命令が出た。


 その2日、田中少佐は児玉大将に、今日の七時から第七師団が攻撃するから見てこいと言われて見に行ったのに、それにせっかく「乃木さんもやってこられて、戦況を見て居られた」のに、伝令が来て、総参謀長がお呼びという。すぐ帰ると、「田中の馬鹿野郎」ときた。少佐なのに。

 「貴様は将来、軍の参謀長や師団長にならなければならぬが、軍の参謀長や師団長や軍司令官などが、電話の連絡もなんにもない山の天辺で何の役に立つものか」と非常な剣幕であった。「これは軍の首脳部に言いたい鬱憤を、私に漏らされたのだなと私は思いました」と言われた方は語っている。さすがは少佐。

 
 このとき、参謀陣の中に、のち総理大臣になった田中義一がいた。この義一と国重の田中コンビが相談のうえ、二〇三高地に居座っている敵の海軍砲を黙らせないといけないということになり、12サンチ榴弾砲と9サンチ臼砲を二〇三方面に移動させ、12月の3日から4日にかけて、激しい砲撃を続けた。

 翌5日の乃木希典の日記が、「坂の上の雲」に引用されている。「朝ヨリ二〇三砲撃。九時ヨリ斎藤支隊前進。目的ヲ達ス」。ここに念願の観測所が設けられることになり、山越しの砲撃が正確に目標をとらえるようになった。この日、田中さんは二十八サンチ砲の4発目が戦艦ボルタワに命中し、四十五度に傾くのをみた。「セバストポール」だけは、黄金山の影に逃げた。


 さて、ネットには、「戦後の研究により」という、誰がどう調べたのか根拠不明の主張があり、すなわち、上記の砲撃が始まる前に旅順艦隊は戦力を失っており、二〇三高地の観測地点としての効果は殆ど無かったと、一所懸命さけんでいる現代版の乃木信者がいるのだが、そうとう脳みそが不調なのだろう。

 このときの日本陸海軍の目的は、旅順艦隊を全滅させるというだけではなく(確かにそれは、二〇三高地から見ていただけでは分からない)、正確を期せば、「来たる海戦まで、全艦が使い物にならなくなったのを確認する」ところまで、やらなければ意味がない。戦後に何が分かろうと、意味がない。 


 このあと12月18日に、東郷平八郎が自ら「龍田」に乗って、日本軍が二〇三高地占領後に始めた砲撃で逃げた「セバストポール」の現状確認に出かけたのは、「間違いなく壊滅したはず」という程度では済まされなかったからだ。

 「沈んでおります」と東郷さんが宣言し、海軍の旅順戦は終わった。しかし、バルチック艦隊が今どこにいて、いつどこに来るのか分からない。ともあれ、まずは艦隊の修繕であった。


 一方の陸軍は、翌12月6日に、乃木軍司令官以下が二〇三高地に登った。上記5日の日記にも出てくる第七師団歩兵第14旅団の旅団長、斎藤太郎少将にも会った。赤坂山以東の敵が後退したのも確認した。

 その前に二〇三高地に登って転び、田中ァに援けられながら下山した児玉源太郎は、乃木希典には同行せず、腹が痛いとか歯が痛いとか言っては軍医を困らせながら、高崎山にいた。


 翌7日に乃木将軍は、柳樹房の司令部に戻っている。児玉総参謀長は、引き続き作戦に加わっていたが、田中さんによると「北方の敵が攻勢に転じそうだから、早く帰ってこい」という命令が来ている。

 また、児玉総参謀長は、かねがね敵軍のみならず、シベリア鉄道の工事が進んでいることに重大な懸念を抱いていたとのことだ。彼も7日の夜に司令部に戻った。そして、8日に「詩会」、9日に旅順を出発する。





(おわり)




今回のお彼岸は、仕事続きで帰省できませんでした。
(2018年9月16日撮影)





























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