正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

間違い  (第116回)

 前回の続き。玄界灘水雷と砲弾の攻撃を受けた佐渡丸は、悲運の僚船常陸丸が沈んだが、自らは沈没を免れて連合艦隊に復帰した。最後の大仕事が1905年の5月下旬、日本海海戦の哨戒任務。

 この前衛艦隊を指揮したのは、主に第三艦隊司令長官の片岡七郎中将。また、第一艦隊第三戦隊の司令官、出羽重遠も加わっている。片岡艦隊らは、バルチック艦隊が「通るっちゃ通る」はずの対馬沖で見張り番をするのだ。


 この先、何回かにわたり大正・昭和の古い資料を参考・引用する。もちろん、そういう古い資料を私が収集できるはずがなく、孫引きである。戸郄一成編「日本海海戦の証言」という一冊の本に、「編」という言葉が示すとおり、まとめて収録されている。

 大正十五年と昭和十年の資料が多い。それぞれ日露戦争の二十周年と三十周年のころで、出版の特集や座談会が多かったのだろう。この戸郄さんの本をどこでいつ買ったのか忘れていたが、栞がわりにしていた包み紙が出てきた。「蘘國神社」と印刷してある。確か二三年目に、遊就館売店で買ったのを思い出した。


 今回はその古い資料の中から、まず「日本海の大海戦を語る」(昭和十年)の最初の部分から始める。座談会の記録であり、以下の箇所は当時の百武三郎海軍大将が語っている。日露戦争時は片岡艦隊の参謀の一人で少佐だった。「坂の上の雲」の文中や巻末の名簿など、何か所かにその名が出てくる。

 特に、第八巻「沖ノ島」の章で、風浪に翻弄されながら懸命についてくる水雷艇群が旗艦「厳島」から見えて、「あまり気の毒だから、なるべく見ないようにしていた」と語っているのが百武さんだ。

 このエピソードは、上記「日本海の大海戦を語る」にもっと詳しく出てくる。いかにも気の毒で、前ばかり見て行ったと語っているから、司馬さんもこの座談会議事録を読んだ可能性がある。


 以上は5月27日の遭遇当日の逸話だが、彼の座談ではその前の箇所に、佐渡丸が出てくる。佐渡丸がやらかした「間違い」と、その「過ちの功名」についてのものだ。今だから笑い話で済むという感じです。海戦に先立つ四日前の5月23日、朝8時ごろ、佐渡丸は誤信号を発した。

 それも、お味方の出羽さん第三戦隊の行動を良く知らなかったため、よりによってバルチック艦隊と見間違えてしまい、迅速に「敵艦見ゆ」の無線電信をばら撒いてしまった。実に「敵艦見ユ」は、形式的には信濃丸が第一号ではなかったのだ。


 神経が張り詰めていた各隊は、もちろん出動の準備に入った。幸い、間もなく間違いであることが判明する。しかも更に幸いなことに、少しだけ間があったため、全軍は「艦隊出動の演習ができたわけです」という僥倖を得た。

 この経験を踏まえて、「これはもう少しこういうことにしよう」などという反省があり、微調整ながら改善がいっそう進んだ。このため、信濃丸の本番の際も、「もう非常にすらすらと出て行ったわけであります」ということになった。


 かくて佐渡丸は、引き続き監視の任務に就く。その日、一番星を見つけたのは信濃丸だったのだが、むしろ佐渡丸はその後の海戦において、これに勝るとも劣らない活躍を示す。語り手はほかならぬ佐渡丸の艦長で、これも同じ本に収められている。




(おわり)


元気いっぱい撫子の春
(2017年4月29日)
































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