正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

藤の木茶屋と羽二重団子  (第10回)

 題に二つ並べて書いたが別物ではなく、江戸時代の創業のころは「坂の上の雲」に出てくるように「藤の木茶屋」という名であったのが、現在は株式会社羽二重団子の商号および主力商品名として有名になっている。同社のサイトにそのように書いてあるから、それで間違いあるまい。日曜日の早朝に近くを歩いていたら、もうお団子を屋内で作っている音や匂いがした。

 私はてっきり、羽二重というのは固有名詞だと思っていたのだが、昔の本を読んでいたら羽二重といきなり出て来たので驚いた。何でも最高級品の絹織物であるらしい。絹のほうは一生、ご縁が無いだろうし、実は団子のほうも土産で買うことはあるが、酒飲みなので甘いものは苦手で食べたことが無い。近所づきあいが悪すぎるか。石でも投げれば届く距離にあるのだが。


 明治の東京でもずいぶん評判は良かったようで、文芸作品にも頻出していると同社サイトに紹介されているのだが、花袋も漱石も鏡花も、地元代表の子規でさえも、根岸の團子とか芋坂の團子などと書くばかりで、肝心の店名はようやく司馬さんが紹介しているくらいだ。

 でも当時の人たちに地名と団子だけで、「ああ、あれか」と食いに来てもらえるというのもお店冥利に尽きるだろう。文政二年の創業とある。1819年。まもなく200周年です。これら歴史と地理の情報は、店の前にある看板に丁寧な説明がある。


 商号も「いつしか」変わったそうで、なんとも長閑で良い。なお、子規の句が引用されており、「芋坂も団子も月のゆかりかな」とある。どんな場面でこれをうたったのか知らないが、芋坂も更に子規庵に近い御陰殿坂も真南にある上野の山に上る坂だから、音無川のほうから見上げると、時間と天気次第で月が良く見える。

 実際、子規たちの作品にも坂と月はよく出てくるし、丸い団子を満月にでも見立てたか、それともただ単に、あの子規の食欲からすると条件反射的に団子が食いたくなったか知らないが、とにかく何事もゆかりがあるのだ。この看板の文中に「街道」という司馬遼太郎好みの言葉が出てくるが、これはまた回を改めて語ろう。


 NHKスペシャルドラマの「坂の上の雲」では、秋山真之が演ずる本木雅弘が空腹を覚え、団子屋の娘に飯はあるかと訊き、「ない」と切り捨てられている。この辺のドラマの展開は原作に忠実であるし、音無川も店の前で団子を蒸している様子などもちゃんと撮られていて嬉しい。

 もっとも木本氏は向かって左側(芋坂の反対側)から歩いてきて店に近寄っている。子規の家のほうから逆行してきたことになってしまう。まあいいや、一旦通り過ぎたことにしよう。今では車や人の交通がけっこうあるので、店先は埃っぽいから戸を閉めて営業している。


 娘は鶯横丁の場所なら知っていたが、正岡子規は知らなかった。亡くなって3年になる。無理もない。子規は妹のお律に自分の口述を筆記させようとしたが、お律がまともに文章も書けないと腹を立てている。もっとも、さすがに妹はいじめず(後が怖そうだし、毎日お世話になりっぱなしだし)、教育がなっとらんと国家を責めた。

 子規のころは娘に読み書きを教える金があったら、息子の立身出世に全てつぎ込んだと言ってもいいくらいだったろうと思う。子規の家は馬周り役で、今の大河ドラマでいえば母里太兵衛栗山善助みたいに、いざ合戦ともなれば殿の守りや使者の役を仰せつかる近衛兵のような相応の家格の武士だから、まだしも最初のうちは金が何とかなった。

 
 秋山兄弟はお徒歩の家柄である。うちの近所にも上野の御徒町という地名があるが、足軽より一つだけ上の階級に過ぎないそうで、馬に乗れず徒歩で戦闘に加わらなければならないから大変だ。おまけに労苦の割にお手当が少ない。信さんが風呂焚きのバイトでこき使われたのは、御一新のせいだけではない。元々ものすごく貧乏だったのだ。

 だから、団子屋さんの娘に新聞日本を読めというのは無理なお話し。真之も「お律さんのうちは?」とでも訊けば会話がかみ合ったかもしれないけれど、このひとは特殊技能者として傑出しているが世知には極めて疎い。それにしても、団子娘も相手が今をときめく東郷長官の懐刀と知ったら腰を抜かしたろうが、真之は亡き友の好物だったに違いない団子を黙って食べている。




(この稿おわり)




羽二重団子  (2014年8月3日撮影)









































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