正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

音無川  (第190回)

前回に引き続き、子規の随筆「そぞろありき」の地理案内などです。この散歩の最初と最後のあたりで、彼が渡ったはずの川の名前も出てくる。音無川といいます。今は暗渠になっていて、川面は見えません。

NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」の最終回で、根岸に来た秋山真之が、朝飯がわりに団子を食べていた店の前に、小舟が行きかう川が流れていました。あれが音無川です。自然の川ではなく、人工河川すなわち運河であったようです。


小説「坂の上の雲」の最終章「雨の坂」に王子に通じる街道が出てきますが、この音無川も、王子から根岸のほうに向かって流れていました。その資料と写真をご案内します。

まず写真をいくつか。一番上の石碑は、子規庵から歩いてすぐのところに立っていて(ずっと前にも、このブログでアップしました)、上記の団子屋のモデルだったはずの「羽二重団子」の店先にあります。


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向かって右側には、子規の句にも出てくる「芋坂」を示す「いも坂みち」と書いてあります。この坂を登っていくと、今の谷中霊園を抜けて上野方面に出ます。左側に「王子街道」とあります。

実際、この石柱のすぐ北側にJRの線路が何本も走っていて、そのうち高崎線は子規庵に近い上野駅から、鶯谷、日暮里を経て、王子駅に向かいます。大雑把にいうと、日光道中中山道のショート・カットです。


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これは私が知る限り、音無川の名が明記されている唯一の公共施設。日暮里駅(JR南口および京成)の階段を北側に降りた左にある消防署です。うちの家族が、ここの救急車のお世話になったことがあり、おかげさまで今も無事。

このあたりは現在の荒川区ですが、子規庵のあたりから、しばらく続く下流の跡は車道になっていて、台東区荒川区の区境になっていますので、ロードマップなどでも確認できます。明らかに人工河川であることを示す妙な流れ方です。


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これは子規庵と拙宅の中間点ぐらいにあるマンションの前に飾ってあるもので、「鶯橋(旧水鶏橋)」と刻んであります。クイナは、たしか子規の文章にも出てきなような覚えがありますが、記憶がはっきりしません。

このような立派な橋げたが、それほど大きくもない水道にかかっていたのは、おそらく昔は貴人が通ったからではないかと想像しております。では、その根拠が載っている資料を紹介申し上げます。荒川区役所から頂戴しました。


音無川  日暮里の台地の東側にそって南北に流れていた川は「音無川」と呼ばれ、農業用水として利用されていた。石神井川から北区の王子権現と飛鳥山の間で分かれ、台東区境を通って、隅田川に注いでいた。

夏には蛍が飛び交う清らかな流れは、農業用水として利用されて付近の人々の生活と密接に結びついていた。音無川には、善性寺前の将軍橋、錀王子宮の隠居所の御陰殿橋、水鶏橋等があった。日暮里駅ができて周辺の市街地が進むと、水質汚染が進み、清流音無川も昭和の初め頃、暗渠となっていった。



恐らく今は下に上水道か下水道が流れているはずです。しかし江戸・明治のころは、周辺の田畑のための農業用水であり、また、地元の生活用水でもあったはずです。

このあたりは上野の寛永寺の裏で、今も比較的、標高がある(5メートルぐらいだと思いますが)。高いところを流しましたから、枝線の水は重力で流れます。

生の声をお届けすると、うちの近所の床屋さんは、ご祖父の時代に日暮里に越してみえたそうで、大正年間、音無川はフナが泳いでいたそうです。昭和初期にホタルがいたというのも、誰か忘れてしまったが作家の思い出話に出ていました。


上記の区の資料にあるように、水源は石神井川のようで、今も王寺駅のそばには音無親水公園があり(これの記事は以前、載せました)、同名の橋もあります。石神井川は、この先、飛鳥山(信さんが、飛ぶ鳥が遊ぶ山とみなしたところ)の北側を流れて隅田川に注ぎます。

江戸時代の地図を見ると、この説明どおりのものもありますが、一方で他の地図では、石神井川から分流するのは不忍池にそそぐ藍染川であり、音無川はこの藍染川を水源としているものもあります。時代によって違ったのか、それとも、よく分からないので適当に書いたか(古地図は大らかです)。


この音無川は、いま都営荒川線の東端ターミナル駅がある三ノ輪まで北流し、そのあと鋭角に曲がって浅草方面に向かいます。吉原の前も通りますから、樋口一葉たけくらべ」に出てくる「お歯黒溝」(おはぐろどぶ)も、あるいは接続していたかもしれません。

その先は山谷堀と呼ばれていたようで、今は小道になっており、最後は隅田川に達します。この全線を歩いたことがある。なかなかの距離であります。吉原の客の中には、隅田川から山谷堀を船で通った人もいたらしい。その道筋に、子規の碑が立っています。


最後に、「そぞろありき」の最後のほうに出てくる本行寺は、今も日暮里駅の北口そばにあります。通称「月見寺」と呼ばれていたため、今も山門に両方の名が書いてある。


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この本行寺は、一節には江戸城と同じく太田道灌が開基したとか、また、別の説では彼の孫によるものだというものもあり、真相は不詳であります。荒川区のサイトは後者の説を採っています。

www.city.arakawa.tokyo.jp


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このサイトにもある小林一茶の句、「陽炎や道灌どのの物見城」を彫った石も境内にあります。これは、本行寺や開成高校などがある道灌山には、太田道灌江戸城の出城があったという説を踏まえてのものでしょう。貝塚もあって昔は周囲が海。見晴らしが良かったのは確かです。

前記の子規の句碑を載せて終わります。「牡丹載せ今戸へ帰る小舟かな」。今戸は山谷堀の下流にあり、陶磁器「今戸焼」で知られています。子規は写生の人ですから、空想で詠んだとも思えないが、はて。



(おわり)



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