正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

かゆうていかん  (第125回)

 戦闘の話ばかり続けたので消耗してきた。我ながら、もろい。方向転換して、子規やその周辺の人たちの話題に入ろう。明治38年7月、すなわち日本海海戦の2か月後に、雑誌「ホトトギス」は臨時増刊号を発行している。

 これに高浜虚子が寄稿した「正岡子規と秋山参謀」という記事は、以前もここで一部引用した。この後半に出てくる例の「七変人」の番付表が記載されているものだ。今回はその前半部分。


 冒頭、「子規居士と茶談中、同郷の人物評になると、秋山真之君に及ばぬことはなかった。」と虚子は書いている。子規はこの五年前に世を去っているが、なんせ、真之さん大勝利の直後だ。ホットなテーマである。

 虚子も正直な人で、「もっとも余は秋山君とは別に交わったことはない」と言いつつ、「坂の上の雲」にも出てくるが、自分の父と秋山兄弟のご尊父が、「旧藩の時分の御同役」であったという縁も披露している。


 二人は今でいうと文部科学省教育委員会のようなお役所の仕事仲間だった。好古に、「ただで行ける学校がある」と教えてくれたのは、彼の実父ではなく虚子の父であった。秋山の八十九翁は、「やはり君と同じく鼻の尖った大きな声をして談笑せらるる面白いおじさんであった」そうだ。鼻は男系の遺伝らしい。

 当時の松山では、「秋山の息子は皆ええ出来で八十九さんは幸せじゃ」と言い合っていたらしいのだが、その出来のええ兄弟のうち、真之の思い出として虚子が挙げているのが、「その後お囲い池の水練場で秋山君は裸で『チンボが痒うていかん』といいながら砂を握って揉まれたことを記憶している。」という立派なものだ。


 すでに国民的英雄になっているころだと思うのだが、虚子は虚仮にしているわけではなく、これを「男らしい」と表現している。確かに、男にしかできない。これも司馬遼太郎の気に入り、「坂の上の雲」に収録されてしまった。お囲い池では、ふんどしを外してはいけないはずだが。水の外ならいいか。

 真之は少なくとも海軍兵学校時代に二回、松山に帰省している。上記の一件は、小説によるとそのうち先のほうの里帰りで、明治二十一年とある。この年の8月、海軍兵学校江田島に移転し、田舎に近くなったので休暇を利用して帰った。


 ちなみに、真之が入学したころは移転前の築地にあった。正確な場所も分かる。先輩の鈴木貫太郎が、「いまの魚市場があるところ」と書いている。さて、このあと虚子の文章は、先に進んで真之の卒業のときのエピソードに触れている。

 「その後淳さんは山路の春さん(海軍中佐山路一善君)と一緒に海軍兵学校を優等で卒業して、何でも水泳の競技の時何里とかの海を泳いで淳さんが一番、春さんが三番であったそうな」。


 この海軍中佐の山路一善君は、少し前にご登場いただいた第三戦隊の山路一善さんである。秋山君は敵艦隊が太平洋から来ると言っていたが、自分は対馬に来ると確信していたと言い切っていたお方である。

 ずいぶんと思い切ったことを語ったものだが、虚子が「春さん」と呼び名で書いているように、山路さんも伊予の出身なのだ。真之とは同郷で、同窓で、同業(海軍の参謀)ということになる。


 淳さんと春さんの話題は、「坂の上の雲」文庫本第一巻の「軍艦」の章に出てくる。この二人や友人らは校内に県人会を作り、そこに後輩の伊予大須ご出身の竹内重利君を呼んだ。この話は前に描いた覚えがある。真之が試験のコツを伝授した相手がこの竹内さん。

 竹内重利の名は、第八巻巻末の「連合艦隊編成表」に、両先輩と一緒に記載されている。第二戦隊の参謀。この三人の上司は、東郷平八郎、出羽重遠、島村速雄という豪勢な顔ぶれだ。頭脳面では、ロシア海軍は伊予水軍に負けたらしい。


 真之の二回目(たぶん)の帰省は二年後の明治二十三年で、この時にお囲い池の決闘が起きている。子規も子規で、その前年末に鳴雪さんから転地療養を勧められて暖かい松山で静養しているのに、ベースボールに夢中になった。虚子と子規の出会いもベースボール・フィールドだった。

 この年の7月に、真之が海軍兵学校を卒業したと「軍艦」の章に出てくる。兵学校の通例で、卒業生は練習艦に乗った。このときは「比叡」と「金剛」で、真之は「比叡」に乗った。遠州灘でトルコ軍艦とすれ違っている。


 司馬さんは、当時のオスマン・トルコ帝国の腐敗という側面を描くため、この話を持ち出しており、つまり、清国やロシア帝国と同様の、国家の老害とでもいうべき具体例を拾っている。

 このトルコ軍艦「エルトグロール」は、紀州沖で運悪く台風に遭遇し、艦長以下581人の溺死者を出すという惨事を招く。何年か前に「海難1890」という映画になった事故。


 このため、通常は遠洋には出ない練習艦は、急きょ生存者を遥かトルコまで輸送する任務を負った。「このことは真之をよろこばせた」と司馬さんは書く。しかし、このため、同年12月に病死した父、八十九翁の死に目にあえなかった。兄好古も殿様のお伴でフランスにいて不在だった。

 ちなみに、この兄弟は母お貞が他界したときも、そばに居なかったことが最後の章「雨の坂」に出てくる。真之は佐世保に凱旋した矢先のことで、わずかに間に合わなかった。好古は満洲の最前線でミシチェンコと戦っている。母は淳が勝ったという号外をもって夫に会いに行ったのだと、信さんは友への手紙に書いた。





(おわり)





テニアン島に残る旧日本海軍の砲台。何インチなのだろう。
(2017年1月14日長男撮影)
































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