正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

三四郎  (第129回)

 漱石の「吾輩は猫である」が世に出たのは、1905年とのことなので、つまり日露戦争が終わる年だ。子規はもういない。漱石と子規という自尊心の固まりのような二人は、お互い心を許し合う友人となったが、片方は間もなく寝たきりになり、もう片方は転勤に留学までしているうちに死に別れになってしまった。

 漱石秋山真之の生没年はほぼ同じ。こうしてみると、漱石の本格的デビューはそれほど早くなく、同世代の露伴や子規や真之のほうが先に著名人になった。このため夏目さんが気鬱の人になってしまったかどうかまでは知らない。


 いつだったか、学校の先生は性格が明るくなくてはいけないという、職務適性に関する主張を耳にしたことがあったが、これは確かに学年が低いほど、正しいと思う。人格形成期において、毎日会う担任の教師が暗くては困る。

 漱石は教師として大成しなかった。松山の中学生にまで小馬鹿にされていた気配がある。その後も転職を重ねており、この点、青春の初期に職業人生の方向性を定めた秋山兄弟や正岡子規は、それが生活費や健康状態の制約下であったにしろ、漱石ほどの迷いはせずに済んだように思う。漱石が今も読まれる所以ではなかろうか。


 文学論やキャリア開発論は、襤褸が出る前に止めるとして、間違いないのは漱石が、日露戦争の戦中および戦後の世相の影響を受けているということだ。子規の人生と、真之の実質的な社会人生活が早々に終わったのと比べ、漱石は「坂の上」から別の道を歩まなくてはならない。

 彼は何年たっても、亡き友、正岡のことを何度も書いている。小説といっても「何の事件も起きず、退屈」という批判まである作品群を生み出した「雲の上」の人のような漱石も、現実世界との接点を求めるとき、いまなお胸の内では彼の現実である子規という人物は、かけがえのない存在だったのだと思う。


 もう何年か前に用事で、東大の三四郎池の前を通りかかり、立ち寄ってみたら夏の少年が釣りをしていたな。さて、小説「三四郎」には、その冒頭に、名高い子規の話題が出てくる。三四郎青年が進学のため九州から東京に向かう電車の中で、「髭のある人」が彼に水蜜桃をくれて、更にこんな座談を始める。

 子規は果物がたいへん好きだった。かついくらでも食える男だった。ある時大きな樽柿を十六食ったことがある。それでなんともなかった。自分などはとても子規のまねはできない。三四郎は笑って聞いていた。けれども子規の話だけには興味があるような気がした。もう少し子規のことでも話そうかと思っていると...(後略)


 子規は「くだもの」が好きで、わざわざ随筆まで書いており、かなり病状が悪化しても梨だのリンゴだの食べている。イチゴも好物。もう少し元気なころは、固いものも食べられたようで、確かに柿は法隆寺でも東大寺でも道灌山でも食っている。

 樽柿とは、渋柿を甘くして食べる方法としては、干し柿と並ぶ名案で、空いた酒樽で酒に漬けておくと渋みが取れるらしい。それにしても、十六個か。それより、九州の青年が子規を知っていて、もう少し話そうかと思っているというあたり、やはり三四郎漱石の代弁者なのだろう。のちに、三四郎が髭のある人に、樽柿を土産に持参する場面もある。


 この電車の中では、日露戦争に絡む会話も出てくる。このあと三四郎を釣り上げるのに失敗する「九州色」の肌の女が(タイでエビを釣るのも難しい)、自分の夫は戦後、大連に行ったまま戻らず、最近は仕送りも途絶えたと、隣席にすわった「じいさん」相手に嘆いている。隣席のじいさんも、つらい思いを抱えているが、女をこう言って慰めた。

 自分の子も戦争中兵隊にとられて、とうとうあっちで死んでしまった。いったい戦争はなんのためにするものだかわからない。あとで景気でもよくなればだが、大事な子は殺される、物価は高くなる。こんなばかげたものはない。世のいい時分に出かせぎなどというものはなかった。みんな戦争のおかげだ。なにしろ信心が大切だ。生きて働いているに違いない。もう少し待っていればきっと帰って来る。


 このあと、髭のある人が三四郎を相手に、日露戦争後の日本論ともいうべきものを展開する場面がある。彼も悲観的で、日本は滅びると、あっさり言う。「いくら日本のためを思ったって、贔屓の引き倒しになるばかりだ」と言う。

 日露戦争以降、日本海軍の仮想敵国はアメリカになったと聞く。真之が、アメリカとだけは戦ってはいかんと主張していたのは名高い話だ。日露戦争は日本昔話ではない。今の時代はその延長上にあると、漱石も真之も司馬遼太郎も、そう言っているような気がする。曇天を見上げて、美彌子は大理石のようだと言った。




(おわり)



石に漱ぎ流れに枕す  (2017年6月12日撮影)







































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