正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

番付表の則遠  (第49回)

 七変人の評は「坂の上の雲」において「子規の手記」と書かれているのだが、前回ご案内した高浜虚子の引用によると、「互イニ評論シタルモノナリ」とあるので、書き下したのは子規であるとしても複数人による総合評価であるらしい。

 また、「七変人ノ順序ハ年齢ノ長幼ヲ以テ定メタルモノナリ」とあるので、「坂の上の雲」のリストは年齢の高い者順になっているわけだ。子規正岡常規が真ん中の4人目で、一歳下の秋山真之が5番目になっている。なお、七変人とは古代中国の竹林の七賢を真似たものか、あるいは古代ギリシャプラトンが選んだという七賢人のもじりか(このころ子規は哲学専攻であった)。


 子規の記事は大別すると、人物評の平文および番付表からなる。番付表は2種類あり、一つは一枚の表に七人の性格・能力が100点満点で採点されている。一部は文章になっていて、「人ニ対シテ」という欄では、子規が「ときどき威張る」という意味、真之については「自ら誇るのみ」と点が辛い。点数は小説に引用があるので重複を避ける。

 もう一種類の番付表は、彼らが一緒になって遊んでいたらしい「七変人遊戯競」という七枚の表である。小説に全部は載っていないので、その種類を並べる。短艇漕手、相撲、腕押、座相撲、遠足、弄球、骨牌。「短艇漕手」とはボートレースであろうか。子規がそのエッセイで書いていた覚えがある。楽しいが金がかかるとのことだった。どこで練習していたのだろう。東京湾隅田川神田川か。かなり早い時期に輸入されたのだな。おそらくイギリスからだ。

 
 「腕押」とは司馬さんによると腕相撲のことらしい。真之が最下位の行司になっている。言い忘れたがこの番付表は、それなりによくできていて、六人が東西の三役(大関・関脇・小結)に並び、行司は表中央に書いてもらっているが「最劣等ノモノトス」と手厳しく定義されている。横綱がいないのは古来、横綱大関の中から名誉職的に選ばれているものであって、形式的には大関が最上位であり、今も大関不在のときは横綱が正式に大関を兼務する。
 
 「坐相撲」で子規がその大関を張っている。当時はどういうルールだったのか知らないが、私が子供だったころ雨の日などによく遊んだ座り相撲は、座布団を並べて正面に相対し、突きと突っ張りだけで相手を転がした方が勝ちという、なかなかシンプルでワイルドな格闘技だったのだが、彼らは変人だけあって大学予備門でも、こんなことをしていたのか。


 真之は「遠足」で小結に沈んでいるが、「坂の上の雲」ではこのあとすぐに出てくる戸塚への徹夜徒歩旅行において最初に脱落したのが彼である。最後の「骨牌」を司馬遼太郎は「ばくち」と訳している。骨牌はポルトガル語のカルタのことで、英語ならカード、ドイツ語ならカルテ。いろはがるたも百人一首も麻雀牌もトランプも骨牌である。両大関にわれらの子規と真之が頑張っている。

 この七枚の番付表のうち、最多の三枚で行司を務めているのが最年少の清水則遠で、「短艇漕手」「遠足」「弄球」において最弱である。「弄球」とは子規が好きだったベースボールのことで、この当時はまだ野球という和語ができていなかったらしい。いつか稿を改めて書きたいが、いまの野球ファンはもっぱら贔屓のチームの攻撃時に応援するが、子規はボールは守備の側にあるのであって、攻撃はその邪魔をするだけだという趣旨の説明をしている。


 則遠は「これとう」と読むらしい。「伊予人」とあるから、秋山兄弟や子規の後輩にあたる。上記のごとくスポーツ系に弱い。しかも大関の表が一枚も無い。虚子によると言いたい放題の子規も、真之と則遠にだけは敬意を表していたらしく、清水君は「ぼうッとした牛のような人であったらしい」と書いているから虚子は面識がなかったのだろう。則遠は虚子も書いているように、若くして脚気衝心で亡くなったのだ。

 脚気ビタミンB1不足が原因で、古来、船乗りや軍人を悩ませてきた。心不全で死に至ることもある恐ろしい病であった。ビタミンB1を発見したのは鈴木梅太郎博士である。そもそもビタミンという栄養素がこの世にあり、人体に不可欠であることを見抜いた最初の人物だ。同じ静岡県人として誇らしい。ノーベル賞をもらわなかった中で一番偉い人だと教わった覚えがある。


 則遠の「人ニ対シテ」は、「淡トシテ水ノゴトシ」とあり、「色欲」と「負ケ吝ミ」において最低点を付されている。負け惜しみは表中、唯一の0点なのだ。真之の筆が混じっているかもしれないと虚子が書く則遠の人物評には(この中に正岡君という表現が出てくるので、虚子はそう推測したのだろう)、「洒々楽々」たる「聖人ナリ」とある。まさに竹林に居そうなタイプであった模様。

 小説「坂の上の雲」に彼の名は出てこないのだが、前出の戸塚遠征(正確に言うと、江の島を目指したのだが全員挫折)にはこの清水則遠が加わっており、瞬発力では飛びぬけていたらしい真之も、どうやら海軍で鍛える前は持久力において則遠にも不覚を取ったらしい。

 この七変人は明治十九年の作で、子規が19歳になる年である。その3年後に書かれた「筆まかせ」の「交際」という記事の中で、「ホトトギス」を発刊した柳原極堂は「文友」、漱石と真之は小説にもあるとおり「畏友」と「豪友」になっているが、清水則遠は「亡友」とさみしく記されている。観方を変えれば、彼だけは死してなお「余ハ偏屈ナリ」と自認する子規の交際相手であった。


 この亡友「清水則氏」は、伊集院静著「ノボさん 小説 正岡子規夏目漱石」にも登場する。明治二十一年、子規は勉強のためと称し、後輩二人を連れて向島に滞在した。まだ書生の時代である。ここで「七草粥」を書き上げたらしい。来て三日目の夕方、三人の若者は土手に座って水面を眺めている。向島に流れる川といえば、春のうららの隅田川。対岸は浅草だ。

 伊集院さんはこのときの子規に、「則遠をここに連れて来てやりたかったのう...」と語らせている。則遠は七変人が描かれた直後に病死していたのだ。彼は松山中学では子規の後輩で、成績優秀であったという。さらに昔、ノボさんの実母お律は乳が乏しかったため、筋向かえの清水家の産婦から母乳を得た。子規と則遠は乳兄弟だったのだ。ご近所で同窓生で、同じく青春の志に燃えて東京に出て来た。一人は早逝し、もう一人もこの年、血を吐いている。

 子規は則遠の病気が悪化していることに気づかなかったことを悔いたという。則遠の葬儀の施主にもなった。虚子によると、子規はかつて虚子を連れて谷中にある則遠の墓地を見舞ったことがあるそうだ。谷中にはお寺や墓地が多く、私はこの近所の古びた街を歩きながら、ときどきお墓をながめては則遠を捜すのだが、まだ見つかっていない。



(この稿おわり)




静岡市からみた富士山  (2015年1月2日撮影)






 今やかの三つのベースに人満ちてそゞろに胸の打ち騒ぐかな   子規


(図の出典:青空文庫






追記

 これを書いた後日、「筆まかせ」を読んでいたら則遠の臨終の様子などが記されていた。そのとき子規は彼と同居していたのである。墓は谷中の天王寺らしい。傷心の子規は則遠の机の上に位牌を起き、四十九日の喪に服した。

























































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