正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

七変人評論  (第48回)

 司馬遼太郎に対する批判の一つに、引用元や参考文献の記載がないという文句をときどき見かける。確かに「坂の上の雲」でも、ごくまれに本文中に参考図書の名が出てくることがある程度である。作者が読んだ本の名を書き残しておいてくれたら、この感想文ももう少し内容豊かなものになったろうに。

 しかし、娯楽小説に対して出典が無いから駄目という見当はずれな要求もなかろう。そういう人たちに訊いてみたいものだが、日本書紀平家物語ホメロス叙事詩も、私の知る限り参考文献一覧などないが、では信用ならん偽作なのかい。


 放っとこう。文庫本第一巻にある「七変人」という章は、珍しくその出典が明らかである。小説文中には出てこないが、私の手元にある河出書房新社「道の手帳」の「正岡子規」に載っている。正確にいうとこれは孫引きなので、私は曾孫引きをしようとしていることになる。

 原典は明治三十八年七月(1905年7月は、対馬沖海戦の直後)に、文芸雑誌の「ホトトギス」に掲載された。子規とは鳥さんのホトトギスを表す漢字の一つで、勿論この雑誌は彼の号にちなんだものだ。同じ年に夏目漱石が「吾輩は猫である」の連載を始めている。


 正確には、理由を知らないが「ホトトギス」の臨時増刊に収録された文章で、題名は「正岡子規と秋山参謀」という豪勢なものだ。著者はこの当時、「ホトトギス」の主催者であった高浜虚子である。俺に書かせろということでこうなった(に違いない)。

 細かく言いうと、虚子のエッセイにも出典がある。書き手は師匠の正岡子規で、タイトルは「七変人評論 第一篇」と題されたものであると虚子はいう。第二篇が書かれたのか、現存するのかどうか私は知らない。

 
 文庫本第二巻「須磨の灯」に、威海衛から戻った秋山参謀が、まだ学生時代からの下宿に住んでいる子規を訪う場面が出てくる。その部屋の散らかり具合に閉口する真之に対し、子規は「相変わらずの獺祭じゃが」と応じている。

 獺祭とはこれも子規の号の一つで、由来はカワウソ(獺)が魚を獲って集めては巣の中に散らかしておく習性を、古代中国の詩人が祭に例えたというエピソードが素敵である。子規も気に入っていたようで、故人自作の墓碑銘にも「又ノ名ハ獺齋書屋主人」と誇らしげに登場する。


 1905年といえば子規が病死して三年後であるが、師亡き後、虚子はその獺祭書屋に散らかり放題だった反故の整理をしたらしい。その作業中に子規が未だ学生時代に書いてそのままになっていた文章が見つかり、それがこの「七変人評論 第一篇」である。ずいぶんと物持ちの良い師と、拾い上げて紹介してくれた弟子のおかげで、われわれは司馬さんの「七変人」を読むことができるわけだ。

 司馬さんはこれを「子規の手記」と呼び、「子規が一人でつくりあげたものらしく」と書いてあるのだが、虚子の記事ではややニュアンスが異なる。書いたのは子規一人のようだが、反故の原文では「互イニ評論シタルモノナリ」とあるし、例の番付表も複数者による採点と明記されている。子規一人の観察結果ではなさそうだ。


 その内容は次回に譲るとして、興味深いのは虚子の本文中に、「未来の司令長官と持て囃さるる秋山中佐」という表現が出てくることだ。大海戦の直後、早くもそういう噂話が飛んでいたのだ。秋山中佐に司令長官の適性があるのか、あったとしても肝心の本人にその気があるか、何とも言い難いところだけれど。

 もう一つ、虚子がこの論評を書いたのが子規一人ではないかもしれないと推測している部分において、「海軍の広報が同君の筆になるという世間の噂」という記載があり、この「同君」とは直前の文からしても、海軍という所属先からしても真之を指していることは疑いない。別の箇所で虚子は秋山先輩の文才を評価しているのだが、世間もすでにそのことを知っていたのだ。

 広瀬も乃木も文才豊かな人物として登場する。どうしようもなかったのは好古だけかのようだ。日清戦争の従軍時、子規は現地で軍医の森鴎外に面談している。日清日露の戦役は、明治文学の絶頂期と重なっているかのようである。



(この稿おわり)




子規が好きだった柿。写真は子規庵近所の渋柿の木で、丸く実っているころは鳥さえ無視しているのだが、ひからびて干し柿になる年明けのころ、ムクドリの群れが食べにくる。(2015年1月13日撮影)。















































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