正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

こころ  (第130回)

 夏目漱石は、正岡子規の親友であったにもかかわらず、「坂の上の雲」にはあまり登場しない。ロンドン時代に子規とやり取りした手紙を読むと、このプライドの固まりのような青年二人が、弱みを見せ得る数少ない相手同士であったことがよくわかる。それに、漱石は主人公三人の故郷、松山で中学の先生もしているのだ。

 確かに漱石は、坂の上の一朶の雲を目指して先へ先へと進んでいくような性格的イメージに欠ける。好古や子規や広瀬のような、天真爛漫で無邪気なお人柄ではない。

 学歴・職歴をみても(前回とニュアンスが違うことを述べるが)、淳さんや升さんは最高学府を中退しているのだが、漱石は少なくとも表向きは順調に、学士となり教師となり、英国留学生となり朝日新聞に入社している。


 今一つの事情は、前回の繰り返しになるけれども、漱石が世に出たのが、日露戦争の後だったということもある。「猫」の連載が始まったとき、日露戦争も終盤に近い。それにも拘わらず、前回の「三四郎」に続いて、今回もう一度「こころ」でお出ましいただくのは、乃木大将が出てくるからだ。

 それも、「三四郎」における子規の話題と異なり、物語と同時進行で明治天皇と乃木大将の人生が終わりに近づき、そのことに登場人物たちが(おそらく漱石自身も)、大きな影響を受けた。


 「こころ」は上中下の三部からなる。「上 先生と私」において主人公が、先生と奥様に知り合い、交流が始まる。「中 両親と私」が実家での話。最後の「下 先生と遺書」が、その長さと悲惨さにおいて、日本文学史上に残る先生の手紙。受け取る方の身になってほしいなと高校生のとき思った。 

 三年くらい前だったか、初対面の人となぜかこの「こころ」について感想を語り合ったことがあり、偶然お相手も私と同じく、「中 両親と私」が好きだということで話が合った。理由はお互い上手く説明できなかったが。なんせ、ほとんど何も起きないのだから。


 「こころ」は人の死がきっかけで、人が死んでいく物語である。Kと先生、明治天皇と乃木大将、この二人と主人公の父。「下」に出てくる遺書には、こういう一節がある。先生のこころだが、漱石も同じように感じたのかもしれない。

 すると夏の暑い盛りに明治天皇崩御になりました。その時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終ったような気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、その後に生き残っているのは必竟、時勢遅れだという感じが烈しく私の胸を打ちました。私は明白に妻にそういいました。妻は笑って取り合いませんでしたが、何を思ったものか、突然私に、では殉死でもしたらよかろうと調戯(からか)いました。


 漱石明治天皇と乃木大将の最期に少なからずの影響を受けていることは、これらのタイミングの一致だけではなく、主人公の父と明治天皇が同じ病いで亡くなっていること、乃木さんとKの自殺の方法が同じであること、乃木夫人と先生の奥様がよく似た名前であること、殉死という言葉などからも推測できる。

 最終章を字面のとおり受け止めれば、明治の精神とは、乃木さんが「死ぬ覚悟をしながら生きながらえてきた」ことに象徴されるふうに読める。先生は殉死という古いはずの言葉に、「新しい意味を盛り得た」と書いた。それは心の問題の決着についてのことだった。

 
 これは周囲の大正生まれの人たちが司馬さんに「明治は良かった」と語っていたということや、中村草田男の澄み切った表現世界とは明らかに異質の時代感覚だ。これは漱石が図抜けてぺシミスティックな人間であるというより、元来、少なからずの日本人が「時代は悪い方に変わっていく」という潜在意識のようなものを持っているからではなかろうか。

 聞いたところでは「坂の上の雲」は、明治100年を記念して連載が始まったらしい。もうすく、明治150年ということで、はしゃいでいる人たちがいるのだが、彼らの共通認識が「時代は悪い方に変わってきた」というものであることは、その言動からして明らかだ。もっと悪くしてどうする。


 ともあれ、こんな終わり方をする小説を読まされて、このあと主人公はどうするのだと読者が気になって仕方がないゆえに、「こころ」は今も読み継がれているに相違ないと思う。奥様に事情は話せないだろうが、一人抱えて生きていくとしたら、乃木さんや先生と同じように苦しむかもしれない。とはいえ、奥様も上記の「殉死でもしたら」で自分を責めるだろう。

 あまり考え過ぎない方が身のためかもしれない。柄にもなく純文学の感想文ごときものを書いたのも、これから乃木大将を話題にしようと考えているからだ。これまた難儀な話だが、避けて通れない登場人物です。




(おわり)



昨夜は隅田川の花火大会でした。
(2017年7月28日撮影)










































.