正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

三河島  (第193回)

しばらく別のブログの更新にかまけて、こちらがお留守になっておりました。子規の随筆「車上所見」(サイトは青空文庫さん)も、今回で一区切りです。子規は人力車の上から、メダカやイナゴをながめているうちに、昔のことを思い出す。この短い文章で、私の気に入りの箇所です。

数年前、まだ車がなくても歩いて移動できたころ、世の中は日清戦争で大騒ぎだった。子規も後にほとんど勝負がついたころに従軍しているのだが、この思い出話の時点では、同僚が次々と海を渡っていくというのに、すでに喀血している彼の従軍は、陸社長のお赦しが出ない。


しかも、彼が中心になって発刊していた「小日本」も、廃刊になってしまい、彼は写生の十七文字に磨きをかけるべく、手帳と鉛筆のみ携えて外に出た。三河島辺りによく行ったと書いています。現在では、民家や商店街がぎっしり並んでいますが、当時は草の上に座っているだけで、イナゴが自分の体の上などで跳ねている。

このあと子規は少し腰が痛み始めたようで、帰り道の文章は今一つ、往路のような躍動感に欠ける。それでも、魚とりをしている十歳ぐらいの娘が賢そうでお気に召し、勝手に「かよチャン」などと名前を付けている。


少し前に戻るが、三河島にはいったところで、「三河島の入口に社あり。前に四抱へばかりの老樹の榎とも何とも知らぬが立てり」という描写があります。この神社とおぼしきお稲荷さんは今もある。宮地神社というお稲荷さんです。この宮地という地名が、そもそもこの神社があるからついたようなので由緒あるものです。


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子規はエノキだろうかと言っているが、ここの名物の大木は残念ながらケヤキでした。しかも、昭和三十六年までは残っていた形跡がありますが、その後、おそらく老朽で倒れてしまったらしく、今では大きな切り株だけが、覆いをかぶせて大切に保存されています。

最後に出てくる諏訪神社は、諏方神社とも書き、東京都荒川区南千住にある。区の資料によれば、江戸時代の文書にも、諏訪と諏方の両方があり、今も残る石碑等にも両方の表記があって、ずいぶんおおらかなものです。まあ、日本の国名も「にほん」と「ニッポン」の両方の読みが健在ですから、これで良し。


諏訪神社は子規も好きな場だったようで、ときどき彼の作品に出てきます。今も賑やかな秋祭りがあるし、大きなケヤキが立ち並んでいて、都会の中にしては気持ちの良い場所です。ここの写真は何度もアップしていますので、今回は別物の写真にします。

一つ目は、私が生まれて間もなく(ちょうど、上の神社のケヤキが撮影されたころ)、国鉄三河島駅で大勢亡くなる痛ましい惨事がありました。おそらくあれ以降だと思いますが、線路の上を歩くのは厳禁。その慰霊碑が、三河島の浄正寺(じょうしょうじ)にあります。



もう一つは隅田川沿いの中央区柳橋にも子規は訪れていたようで、同地の看板に彼の句がありました。柳橋は、神田川隅田川に流れ込むあたりにあった花街で、子規の写生も題材の幅が広い。

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(おわり)



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根津の近くにて  (2020年3月21日撮影)



【追加】

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早朝の諏方神社  (2020年4月1日)




















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