正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

そぞろありき  (第189回)

ただいま他のブログにて、先の戦争の記事を書き続けているため、戦争疲れしており、日露戦争はしばらくお休みです。先日読んでいたのは、「道の手帳 正岡子規」(河出書房出版)。

この短い随筆「そぞろありき」も収録されている。漢字で「漫ろ歩き」。「すずろ」とも読むし、「あるき」とも読む。あてもなく歩く。まだ子規が歩くことができたころの作品。


出典を見ると、「『日本』明治27・8・4」とある。先述したように、子規は明治になる直前に生まれているので、満年齢になる年と、明治の年号が同じで便利(漱石も同じだ)。子規27歳になる年で、日清戦争に従軍する前年。

「日本」と書いてあるように、彼が勤務していた新聞に掲載したもの。「坂の上の雲」にも、彼は新聞記者だから紙面を埋めるという作業も必要なときがあり、国会で傍聴したり、こうして自分の日常も書いている。


なお、「墨汁一滴」や「病床六尺」も、その全てかどうかまでは分からないが、陸羯南の「日本」に連載したものだ。

ときどき子規の評論や感想に、死の病に侵されながら明るいとか前向きとか書いているのを見かけるが、厳しく申し上げるならば、少し軽率である。商業出版の新聞で記者が公表する文章なのだから、「仰臥漫録」のような病状や懊悩のことなど、書き連ねる訳にはいかない。


本作「そぞろありき」に出てくる地名や施設名は、拙宅のすぐそばのものばかりで、地図も要らずに歩ける。胸の病を発しているから、彼は自分の人生がそれほど長くないかもしれないことは知っている。

暁の夢に目覚め、みれば竹垣に朝顔がそこかしこに咲き、「短き命のさても美しき色かな」と感じ、せっかくの早起きだから郊外の景色を見ようと歩き出したと冒頭に書いてある。


f:id:TeramotoM:20191027104753j:plain

拙宅の暁、夕顔と朝顔


子規は俳句を詠みながら歩く。「蚊の声もよわる小道の夜明けかな」。後に病床六尺の世界に身を置くころ、蚊は彼の天敵となる。現在はそうでもないが、彼のころは住まいがある根岸あたり、裏の上野の山(パンダが住んでいる)からの湧き水だろう、水はけの悪い土地だった。

この朝、彼が歩いた道は、いまの台東区荒川区なのだが、今日とは景色が全く異なる。江戸時代の地図と変わらず、ほとんど「青田」だったようだが、今や田畑のかけらもない。最初のほうに出てくる音無川は次回の話題にいたします。


今回は、子規が近くを通り過ぎた「日暮里火葬場」について。「どこの誰の形見とは知らで朝夕絶えぬ烟の誠に世の中の真相なりける」、「骨を拾いて帰る人引きもきらぬ」と書いている。私も来年は六十になる。若いころは余り好ましく思わなかった墓場や火葬場も、いまは平気。

この「日暮里火葬場」は、森まゆみ著「谷中スケッチブック」の「谷中墓地」という章に出てくる。谷中に「谷中斎場」があり、日暮里に「日暮里火葬場」があった。



過去形で書いているのは、今はもう無いからだ。以下は記憶にたよって書きますが、谷中の斎場は、どこかと合併して、いま町屋斎場になっている。うちの親戚も、ここで葬式をやらせてもらった。

何せ近辺には、上野や谷中の寺が無数にあり、広大な谷中墓地もあるのだから、引きも切らずの葬儀だったのだろう。前掲森書によれば、大杉栄の告別式は谷中斎場で行われ、樋口一葉は日暮里火葬場で荼毘に付された。


以下はまた記憶の限りだが、確か正岡子規は日暮里ではなく、引っ越した後の町屋だったはずだ。それはさておき、子規が見た日暮里火葬場は、どこにあったのだろう。

かつて荒川区役所の資料か何かで、三河島駅のそばにある「蛇塚」の近くだったと読んだ覚えがある。子規のそぞろありきも、根津→箕輪→三河島→日暮里火葬場→諏訪明神とあるので、大体の位置はそのとおりだ。


f:id:TeramotoM:20191027111232j:plain

f:id:TeramotoM:20191027111153j:plain


蛇塚そのものは、区の説明版によると、村境の石柱のようなものだったらしい。私の散歩道にあるので、ときどき前を通るが、花や供え物が絶えたことがない。綺麗にしてあるし、現役の祀りの場だ。

この日は、子規が帰宅してもまだ、家の朝顔はしぼんでいなかった。うれしかったようで、一句ものにしている。

 朝顔やわれ未だ起きずと思ふらん


(おわり)




f:id:TeramotoM:20191027112744j:plain

谷中霊園にて  (2019年10月27日撮影)






















.