正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

王子街道(前半)  (第12回)

 子規の書いた日記調の文章などを読んでいると、ときどき不折あるいは不折子という人が出てくる。画家・書家の中村不拙のことだ。伊集院静著「ノボさん」によると、不折は子規の口利きで新聞日本に挿し絵を描くようになったという。

 後には子規の号から命名された俳句雑誌「ホトトギス」に連載された夏目漱石吾輩は猫である」の挿絵も書いた。彼が人生の後半を過ごした家は、かつて子規が住んでいた家の近所にあった。その近くに彼が設立し、今では台東区立になっている書道博物館もある。


 館は子規庵のすぐ前だ。詳しく描きたいところだが、実はまだ行ったことがない。行ったら書きます。不折の独特の書体をご覧になりたい方は、お近くのスーパーなどでカレーのコーナーをお訪ねください。新宿の中村屋(こちらは一回だけ行ったことがある)のロゴは彼の書である。中村屋さんのサイトにもそう書いてあるので間違いない。

 ただし、真之が子規の家を訪ねた頃は、まだ博物館はないから民家が立ち並んでいただけだろう。彼はこのあと田端に行き、子規の墓がある大龍寺にお参りしている。今の東京都北区にある。これから彼の足跡を辿ろうという魂胆である。もっとも、どの道を歩いたかまでは「坂の上の雲」に全く出てこないので手前の推測による。


 真之にはそんなに土地鑑はないはずなので(葬式のときも彼は葬儀の一行を根岸で見送っただけらしい)、歩いた経験のある道か大通りを歩いたに違いないと思う。間違いなく知っているのは藤の木茶屋と子規庵の間の道だから、来た道を茶店まで引き返しただろう。ここからは街道を歩ける。

 小欄の第8回「根岸の芋坂」に乗せた写真にも小さく映っているが、羽二重団子が面している音無川を埋め立てた道と芋坂が交差している角に、石の標識が立っていて「王子街道」と彫ってある。うちの家族に食欲だけで生きている者がおり、「たまご」街道と発音したが間違いで、同じ北区だが田端からはそれなりの距離がある王子だ。好古が苦しんだ(かな?)例の飛鳥山がある。


 歴史好きやらパワースポットやらで、善性寺や羽二重団子の写真を撮ってブログに書いている人が少なくないが、この元音無川の道を王子街道と断定しているものばかりが目につく。初めてきた人なら(当所は私もそうだった)、目の前で車道としては行き止まりになっている芋坂と違い、左右に長く伸びている道路を昔の街道と思って不思議でも何でもない。

 でも、子規や真之のころは川だったのだ。子規の作品に川として何度も出てくるのだから間違えようがない。拙宅の江戸時代の近所の地図(もちろん写し)が二三枚あるのだが、やはり川であり道もあることはあるが、なんせ農業用水沿いで余り民家もない。これを街道とは呼びづらい。


 もちろん時代により道の通り場所も名も異なって当然なので、私とて断言はできないが、音無川の下流に行くほうは、地図によっては浅草街道と書いてあり、確かに道なりに行くと浅草に出る。何度も歩いた。お寺も多いし、こちらは街道と呼んでも不思議ではないくらいの人通りがあったような感じがする。

 しかし音無川の上流のほうは、いまでこそ日暮里駅に真っ直ぐ繋がっているので賑やかだが、江戸期は田か畑である。音無川沿いの道も無かったり、有っても細かったりで、少なくとも見た感じでは街道というより、あぜ道に近い。とはいえ羽二重団子のサイトにも王子街道を往来する人たちに団子を提供してきたと書いてあるし、石碑が嘘をつくとも思えない。


 とりあえずの結論。街道が真っ直ぐだというのは車に慣れた現代人の常識であっても、昔の地図を見ると折れたり曲がったりが当たり前である。王子街道は、ここが起点か、さもなくば羽二重団子で直角に曲がり、芋坂を登っていたはずだ。鴎外が馬で行き来したのだし、墓地を抜けてお寺がたくさんある谷中に続くから人通りもそれなりにあっただろう。

 傍証が二つある。今回はその一つの説明で締めくくる。先ほどから話題にしている道しるべである。この四角柱はなぜか茶店の建屋から見て斜めの方向をむいている。目の前の道が右も左も王子街道なら正面を向くのが普通だろう。その道は北西と南東に向かっているのだが、道しるべは北を向いているのだ。


  植木が生い茂っているので写真では見づらいが、この「王子街道」と彫ってある面の裏側は何も書かれておらず、残得ながらいつごろ建立されたのか分からないが(見た感じでは、それほど古くない)、左右の面には情報がある。

 向かって左側(音無川の下流だった方向)には「根岸みち」とあり、右側には「芋坂みち」と書いてある。街道はここで直角に折れていたと考えるのが自然だと思う。真之はここで左に折れて芋坂を登ったのだろう。おそらく来たときも同じ道だったのではなかろうか。

 それに文庫本第二巻の「渡米」に、病床の子規を見舞いに行く真之は芝高輪の自宅から上野公園を抜けて根岸に行ったと出てくるのだ。さて、もう一つの傍証は江戸時代の地図である。長くなったので次回につづく。



(この稿おわり)




芋坂みちの路傍にて  (2014年8月3日撮影)































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