正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

津軽海峡秋景色  (第50回)

 こうして「坂の上の雲」や日露戦争の資料を読んでいると、当時の日本はずいぶんと時代の巡り合わせに恵まれたものだと思う。戦いに勝つためには戦意も軍備も不可欠だが、大和魂だけで大戦争に勝てるものでもない。

 時代の巡りあわせということについて、ここでは二点、私見を述べます。日露戦争のころの軍政や作戦当局の首脳、現場の司令官、司令長官といった意思決定者の大半は、戊辰戦争その他の幕末維新の戦闘に若くして加わり、薩長は外国とも戦い、西南の役を筆頭に内乱を鎮め、日清戦争を経てロシアと戦った。

 いろんな戦場で、いろんな敵と戦って力を加え、戦争は軍事だけではなく外交や通商や財政にも力を尽くさなければならないことを、いわば段階的に経験し学んだ。その古強者が将官級になり、維新後の近代教育を受けた後輩が佐官・尉官クラスになってその補佐に当たるタイミングで、敵がやってきた。

 もう一つは、敵の露国やその前の清国が、日本よりはるかに国土や人口や資源には恵まれながら、その後の革命の歴史が物語るように、すっかり老朽した国家であったことだ。しかも、われわれ日本人(特に戦争を知らない子供たち)には実感がわかないが、敵軍で最前線に送りこまれた兵のうち、少なからずは被支配者である別の民族であり、愛国心や忠誠心において我が国に劣っていた様子である。これらだけでも、如何に日本が幸運だったかが分かる。


 こういう戦歴の古参の軍司令たちは、司馬遼太郎の別の小説にも出てくる。歴史作家や歴史家は、あるとき専門にしていた時代から、隣接領域であるその前かその後の時代に興味が拡がて行くことが多いらしい。梅原猛さんはご自身が語るように、過去に進み古代まで行ってしまわれた。司馬遼太郎は、少なくとも彼の三大長編の順序を観る限り、逆方向に現代行きの軌道に乗った。

 出世作の「竜馬がゆく」の一章「秘密同盟」において、京に潜伏してきた長州の志士を薩摩が待ち受けているが、そこに挙げられている名には小松や西郷や大久保といった主導者に加えて、やや若い世代の西郷従道大山巌野津道貫といったお馴染みの顔ぶれがすでに揃っている。戊辰の北越戦争を描いた「峠」には、若き日の立見尚文が鑑三郎という名で登場し、河合継之助と会話を交わす場面がある。


 さて、大迫尚敏のことである。ここ数回は旭川、桑名、弘前といった地名にまつわる題材を拾い上げて来たのだが、最後にお待たせしていた第七師団長を話題にすべく旭川に戻って終わろう。その前に薩摩出身の彼は「跳ぶが如く」に出てくるので、そこから始めたい。西南の役の最初の激戦地といってよかろう、熊本城をめぐる攻防である。

 まだ鎮台さんの時代で戦闘に不慣れな弱兵を率い、清正公お手製の堅城に立てこもり薩軍を迎え撃ったのは、近藤勇の首を刎ねた土佐人の谷干城だったが、彼の配下の幹部は薩摩出身者が揃っている。樺山参謀長、与倉連隊長、参謀に川上操六。長州の児玉源太郎の名も見える。そして大迫尚敏もいた。


 参謀長の樺山資紀日清戦争の海軍の軍令部長だった人だが、後日稿を改めてこの魅力的な男を取り挙げたい。「跳ぶが如く」の文庫本第八巻「熊本鎮台」において樺山は、「当時、熊本城には、余や与倉連隊長をはじめ、川上、大迫その他、鹿児島出身の武官が雲のごとくたくさん居った」ので、いざ西郷軍が来たときに諜報活動などを受けて城内の混乱要因にならないかと懸念を深めていた。

 そういう自分が西郷に私淑し続けてきた樺山は、心中さぞかし辛かったと思うが、立場を明らかにするため熊本城に押し寄せてきた薩軍の先鋒に夜襲をかけると言い出した。谷も許さざるを得ず、五百人の夜襲隊が作戦を強行している。これを率いたのが大迫大尉であった。


 しかし熊本の土地に暗い上に、こちらは戦争慣れしていない兵であり、しかも相手が悪かった。薩摩の切り込み隊長は百戦錬磨の別府晋介である。後に西郷の介錯をした人だ。鎮台兵は恐怖と緊張に耐えきれず、つい少し距離を措いた地点から銃を撃ってしまった。これから夜襲に行きますとお知らせしたようなものである。

 これに対し、薩摩の連中は気付いたものの、たかが銃声に騒ぐなとさすが平然としており、これには夜襲側も畏怖したらしく、また一発、撃ってしまった。本当に夜襲ですという再確認である。相手は立ち上がった。「跳ぶが如く」には出てこないが、大迫尚敏は顔に負傷したらしい。部下は一目散に逃げ出して緒戦は完敗であった。


 日露戦争のとき、すでに触れたが陸軍では当初、弘前の第八師団と旭川の第七師団は手持ちの駒となって、国内待機であった。というほどの余裕があったかどうか、本当は八甲田の悲劇を招いたように、日本はロシアがウラジオストクから北海道や津軽海峡方面を攻撃するのを恐れて、強固な守備隊を北国に置かざるを得なかったのではないか。

 しかし、ウラジオ艦隊は徐々に旅順へと移動し、その旅順では砲弾と兵士の命が無尽蔵であるかのように使われ続けている。最初に出発した弘前第八師団は北へ向かい、沙河・黒溝台の主戦場に参加した。こうなると最後の一手である第七師団の強兵は、遼東半島に送られるほかなくなった。しかもそこでは、二〇三高地が天王山になろうとしていた。

 1904年の秋である。すでにロジェストウェンスキーの艦隊は一路、日本を目指して回航中。決意の大迫中将は旭川を立ち津軽海峡を渡り、はるばる東京に旅して、暇乞いをした。まず首相ら。そして最後が明治天皇だった。大佐のころ大迫さんは、近衛歩兵第一連隊長であった。天子様のボディーガードのリーダーである。そして二人は親しかった。以下次号。



(この稿おわり)




北国の山中にて。ピントがボケているのは腕のせいだけではなく、新幹線のスピードもあると思います。
(2015年3月11日、東北で撮影)

 


 War, children, it's just a shot away, it's just a shot away.

     ”Gimme Shelter”  The Rolling Stones with Merry Clayton


 なあみんな、戦争は銃一発で始まりかねないものだ。






































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