正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

黒木軍 鞭声粛粛夜過河  (第94回)


 川中島といえば頼山陽だ。上杉軍は鞭声も粛々と、夜、千曲川を渡る。暁に見る武田軍、一千の兵。鴨緑江で名を馳せた常勝将軍、黒木為腊がこれを遥かに超える規模で、渡河に挑戦することになる。

 私はこの黒木さんが好きで、いつか紙面を割いて、もっと詳しく感想文を書きたいのだが、今日のところは日露の川中島の場面だけ観戦する。この戦争では、陸軍の軍司令官は四名。乃木さんは非業の死を遂げて大将どまりだったが、主力を率いた野津と奥は元帥になった。

 黒木は性格に傾斜があったのではと、確か「坂の上の雲」のどこかに書いてあったような気がするし、薩長の人事争いで漏れたという意見もきく。でも何となく、勝手を言えば黒木元帥というのは似合わないように思う。

 
 黒木が登場する印象的な場面の一つは、海軍の話題なのだが、文庫本第八巻の最終章「雨の坂」で、東郷長官とロジェストウェンスキー元長官が、病床で初対面する場面に台詞だけ出てくる。

 英国から来た従軍武官ハミルトンに、黒木が「戦争というものは、済んでしまえばつまらないものだ。軍人はそのつまらなさに、堪えなければならない」という趣旨のことを語ったらしいという話が出てくる。


 もしかすると黒木は、戦勝で盛り上がっている祖国に戻ってからも、そういう態度を取り続けたのかもしれない。そんなことでは、士気にも関わろうし、つまらない顔で元帥は無理だな。

 それでもハミルトンさんは彼と仲が良かったのだろう。そうでなければ、こんな会話を高級軍人同士ができるとは思えないし、彼が好きで書き残したのだろう。


 戦後、黒木がさんが渡米したときも大歓迎だったらしい。ジェネラル・クロキが「もうすぐ来る」という、当時のアメリカの新聞記事や所縁の品などが、今なお残っている。インターネットで見ることができるのだ。いかにもカスター将軍や、デイビー・クロケットを好む土地柄らしい。三国志水滸伝にも出てきそうな大将である。


 鴨緑江を渡河した黒木の第一軍は、南山から北上した奥の第二軍や、追って渡航してきた野津の第四軍と合流した。彼らが、石田三成のごとく、すでに布陣して待ち受けるクロパトキンの大軍と空前の会戦を行ったのが遼陽。

 日本軍はすでに砲弾が尽きている。正面を野津と奥。黒木は右翼の山岳地帯を越えて、濁流渦巻く太子河を渡り、側面攻撃を行うという作戦を考えた。考えたのは、秋山好古陸軍大学校の同期で一期生だった藤井茂太参謀長と児玉源太郎で、藤井はこれを現場で黒木に献策した場面が、第四巻「遼陽」に出てくる。

 黒木はすぐ了解し、「ああ、義経鵯越だな」と言った。「ひよどりごえ」は、一ノ谷の決戦で、源義経が奇襲を成功させた際、敵の背後に回った地点の地名。


 好古は義経を騎馬戦の天才とみなし、信長と併せて二人、フランスで老軍人に推薦して説得し、世界史上に残る騎馬隊長の一覧に加えさせた。好古、というより未だ信さんと呼んだほうが良かったであろう頃、彼は陸軍大学校の入試を受けるために、市ヶ谷の坂を上った。司馬さんは、「陸軍士官学校」と書いている。例の飛鳥山事件のときだ。

 この試験で信さんが頼った本郷房太郎という十八の青年が、丹波篠山の出身と聞いて、信さんは「ひどい山国からきたものだ」と、内心、小馬鹿にしている。

 自分もひどい温泉国から来たようなものだと思うが、ともあれ後に笹山が教育に力を入れて来た藩だと聞いて、大いに見直している。信さんは、風呂炊きの次の職が、教育者であった。誰より尊敬したのが、学問のすすめ福沢諭吉


 篠山は行ったことがないが、地図を見ると、京都から姫路に抜ける道沿いにあり、また、ここから山陰や北陸にも抜けることができる。奉天のような交通の要所であった。新さんは知らなかったのだろうか。鵯越のとき、義経が率いる源氏の別動隊は、丹波笹山を通過しているのだ。松山は通過していないのだ。松山のみなさま、あれこれ御免なさい。

 この本郷さんは、「坂の上の雲」での出番はこれ切りだが、信さんが「偉くなる」と予言したとおり偉くなり、松山のみなさんのサイトなど拝見すると、生涯、秋山好古の良き友であったらしい。

 日露戦争では、木越安綱の第五師団に属した。この広島の師団は遼陽で黒木の指揮下、太子河を渡る。後に黒溝台では絶望の荒野を渡り、立見の第八師団を救うことになる。


 黒木軍の三個師団は、1904年8月の30日から31日にかけて、少数の兵を前線に残して敵の気を逸らしつつ、「ほとんど全軍が」「ごっそり渡ってしまった」。後から気づいたクロパトキンは、まず味方に激怒し、次に黒木軍に主力を向けてしまった。お互い悲惨なことになるが、これはまたいつか話題にしよう。


 作者によれば、黒木の渡河の成功は、日本人がメッケルを超えるようなものであり、この際どさが日露戦争の「勝利の基礎」を築いたというふうな描写になっている。

 ところが、当の黒木と藤井たちは激戦の最中で、そんな関ヶ原や天王山のような境遇で戦っているとは思う暇もなかったらしい。黒鳩金は逃げ、残したベッドは大山のものになった。鴨緑江太子河ときて、次は沙河を渡らないといけない。忙しい。







(おわり)









冬至の日の出  (2016年12月21日撮影)













































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