正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

吾人、文学に志す者  (第96回)

 子規はせっかく入った東京大学の文学部なのに、中退せざるをえなくなった。司馬さんすら「子規も、よくなかった」と書いているように、多分に自業自得だった。二回も落第しているのだ。それも、全力で試験に取り組んだ結果ならともかく、年譜によると試験を放り出して旅行に出かけている。

 私は彼が満35歳の若さで亡くなったことよりも、これほど出歩くのが好きだった男が、歩くことさえできなくなったことのほうが、よほど気の毒でならん。彼の文学が病床において成熟したのだとしても、その前に幾多の国内旅行をし、紀行文を書き、俳句もその中で磨いた。そして、青年は海外を目指す。


 子規の二十代半ばは多事だった。ちくま書房「正岡子規」の巻末年譜によると、学生時代の記録には喀血、下痢、嘔吐に悩まされていたという表現が繰り返し出てくる。文春文庫「坂の上の雲」(第二巻)の「日清戦争」の章によると、ようやくその病状が収まりかけていたころ、子規は常磐会寄宿舎を追い出されている。


 その原因は、俳句・短歌という「毒」をまき散らしていると責め立てる抵抗勢力に負けた。落第がそれに輪をかけて拙いのは、常磐会の寄宿舎が十五万石の旧主、久松公による無償の育成施設だから、遊んで落第していては居づらくなるのも当然というのものだ。

 かくして、1892年、25歳のときに彼は退舎すると同時に、奨学金も失って退学した。すでに、苦手な試験がある大学の学問よりも、文学の道を歩もうと決意していたに違いない。早くも書生時代から、新聞日本に「獺祭書屋俳話」を連載してるのだ。


 働くところと住むところを探さなくてはならない。まずは親友であり、子規の母方の叔父でもある加藤恒忠から、東京の子規を預かっている陸羯南に挨拶にいったと「坂の上の雲」にある。

 「いいんだよ」と陸先生は優しい。加藤も自分も「おどろきゃしませんよ」という発言に、子規が内心「そりゃそうだろう」とおもったというのが可笑しい。ご両名は大学中退の実績においても、子規の大先輩であった。

 新聞日本の陸社長は、月給十五円で子規を雇用してくれて、しかも近所に住みなさいと言ってくれた。このときから終生、子規の根岸住まいが始まる。社会人になったのが1892年の12月で、その前月に松山から母の八重と妹の律を呼び寄せた。生活が大きく変わっている。


 翌1893年は、松尾芭蕉の二百回忌にあたる。「日本」に連載した子規の芭蕉論は、「過半、悪句駄句」という凄まじいもので、それでも二百句ほどは、まともな作品があるから大したものだと意気軒高である。1984年、根岸の中で引っ越した。給料を上げてもらったので、今の子規庵のところに転居したのだ。それでも金はいつも足りなかったと、死後もお八重が涙をこぼした。

 この年、子規は1月にグループ会社の「小日本」の経営を任される。不折を知り、その挿絵画家とした。子規による「小日本」の事業運営は堅実だったようで、入社時には小馬鹿にしていた編集主任の小島一念も子規を見直し、後年、「天がその才幹をねたんでこのひとを夭折させた」と、旧約聖書のエノクのような運命を語った。


 残念ながら「小日本」は、半年で政府の弾圧により廃刊。子規は「日本」に戻り、その十日後に「豊島沖の海戦」が起きる。何があったかというと、東郷平八郎が宣戦布告前にイギリス国籍の船を撃沈した。最終的に、英国はこれを国際法に沿ったものと好意的に判断したとのことだが、ということは宣戦布告は国際法上、不可欠ではないということだろう。大英帝国がそういうのだから。

 1985年に入って、子規は居ても立ってもいられなくなったようで、日清戦争の従軍を申し出た。「それはちょっと」と流石の陸社長も、安全配慮をみせて受け流し続けた。しかし、子規の周囲では、次から次へと従軍記者や兵隊として、仲間が戦争に征く。「鬱屈」をためこむ正岡記者。


 ところが、「坂の上の雲」によると二月ごろ、大阪師団か近衛師団に従軍記者の追加募集があるという凶報・吉報が、根岸の里のわび住いに届いた。羯南翁も、つい「考えてみましょう」と言ったらしい。

 これは現在の官庁や企業で「検討します」と言われたら、まずお断りの意味なのだが、子規は雀のように喜び、社長も母も今さら後戻りできなくなった。これは最後の大きな機会かもしれなかった。早速その夜、友人への手紙に「生来、稀有の快事に候」と書く。

 1985年3月、つまり日清戦争も二年目を迎えた年の春、ようやく子規の従軍が決まった。大原の叔父への手紙には、おそらく大阪師団だろうと記している。ところが、「坂の上の雲」には書いてないが、子規は近衛師団に従うことになった。


 この3月6日付けで新聞日本社員の正岡常規氏が、陸軍省に提出したと思われる従軍の申請書類が、防衛研究所に残っている。そのコピーはネットにもあって(最初のうち、正岡子規で検索したので出てこなかった)。ウェブサイトは「国立公文書館 アジア歴史資料センター」のもので、資料名は「東京日本新聞社員正岡常規の履歴書等の件」。

 構成は前半が履歴書で、退学の件も正直に書いてある。後半が「作文」。地名が「○○」になっているので、架空の従軍記事だろう。勇ましい文章である。これが二十代半ばの若者の筆によるものだ。現代のわれわれとは教養の度合いが、てんで違う。

 間違いなく子規の筆跡だ。漢数字を例にとると、「九」の字の「はね」が派手に跳ねるところ。「八」の字では間があいていて、文字どおり八の字眉毛のようになっているところ。直筆の署名に、判子も捺してある。合格。


 かつて、寄宿舎で子規の俳句弟子のようになった内藤鳴雪のはなむけの句は、君行かば山海関の梅開く。山海関は万里の長城が海に落ちるところにある名所だ。のちに鳴雪先生は、この従軍で体調を悪化させ、長年の闘病で他界した子規の墓所を探してくれた人でもある。

 そして、新橋駅のホームにて、見送りに来た虚子と碧梧桐が遺書かと疑った子規からの手紙には、彼もまた、まことに小さな国の開花期に参加した国民であった証しの高揚がみえる。


 「而して、戦捷のおよぶところただに兵勢ふるい、愛国心いよいよ固きのみならず、殖産富み、工業起こり、学問進み、美術あらたならんとす。吾人、文学に志す者、亦これに適応し、これを発達するの準備なかるべけんや」。

 子規の文学は、帝国主義戦争や産業資本や最新の学問芸術の振興と同じ歴史の舞台にある。私は他の人が「坂の上の雲」を読んだ感想をときどき眺めている。

 どうやら単なる戦争好きも、文学好きも(本来そういうものなのだろうが)、子規の一面しか見ていないと思う。その子規だが、大変な従軍になった。





(おわり)






根岸の梅 (2017年2月5日、家人撮影)








































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