正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

もはや災害  (第153回)

 1904年の9月から10月にかけて行われた第二回旅順総攻撃は、先述のとおり、数え方によっては二回目と三回目とも呼べなくはない。中断して再開したからだ。

 その理由は砲弾が尽きたからだと、どこかで読んだ覚えがあるのだが、損害が酷く中断せざるを得なかったと書いてある本もある。ともあれ第一回の失敗を踏まえ、現地の第三軍も、日本の大本営も、追加の創意工夫に迫られた。

 第三軍は、兵が地面を走るばかりでは機関銃や大砲の的になるだけということが分かり、坑道を掘って進み、相手の近くまで進んでから白兵戦を行うという戦術を加えた。もっとも、日本側は本格的に工兵を活用するという研究も実戦も不十分だったと書いてある。


 右翼の第一師団の攻撃対象に、水師営と二○三高地を初めて加えた。日本から送られてきた二十八サンチ榴弾砲は、9月半ばに大連に届き、10月から実戦での試運転が始まる。

 第三軍は本国に兵の増派も要請し、大本営は最後の予備隊である旭川の第七師団を送ることとした。これは決定に時間がかかったようで9月末に正式に決まり、第二回には参戦せず、第三回の攻囲戦から登場する。

 
 第ニ回の後半に満洲では沙河の会戦があり、戦闘期間が重なっている。次回以降に別途考えたいのだが、「坂の上の雲」では児玉源太郎が旅順に二回、出張しているのだが、その第一回目の旅程も、この沙河会戦と重なった。なお、二回目の旅順行きは、第三回総攻撃の途中から現地入り。

 司馬遼太郎による第二回総攻撃の総括は、文庫本第四巻「旅順総攻撃」の冒頭に出てくる。それは「惨憺たる失敗」であり、「もはや戦争というものではなかった。災害といっていいであろう」と極めて手厳しい。


 司馬さんは「旅順」の章で、伊地知が維新後に成人した薩摩人でなければ、平凡な一生を送っていたかもしれないと書いている。「坂の上の雲」は、薩長による藩閥政治の批判の書でもある。

 ときどき司馬遼太郎が、薩長びいき、明治維新の美化という文脈で批判・悪口を書かれているのを見かける。とんでもない間違いだ。至る所で、薩長の暴力とその犠牲者が話題になる。


 分かりやすい例としては、彼の幕末維新をテーマにした長編小説の主人公の出自をみれば明白だ。坂本龍馬は土佐とはいえ、追い出されるように脱藩している。江藤新平肥前だが斬殺。河合継之助も土方歳三も秋山兄弟も「賊軍」。

 批判者の中には、奥も立見も賊軍だという主張をする人がいるのだが、立見は出世が遅れ、日露戦争時は中将で師団長だ。大山・児玉と4人の軍司令官あわせて6人の陸軍大将のうち、奥康鞏以外は薩長であり、連合艦隊の3人の司令長官は3人とも薩摩人。


 もっとも、これは極度に不公平というほどの偏りとは思わない。彼らは、戦歴が豊富な世代なのだ。薩長両藩は幕末に外国と戦争をしているし、戊辰戦争があり、薩摩は西南の役で敵味方に分かれてまで戦っている。

 司馬遼太郎が繰り返し批判しているのは、彼ら野戦軍司令官たちが薩長出身であるからではなく、彼らや次の世代から出ている参謀を選ぶ側、すなわち政府軍部の上層を占めている薩長の派閥や血縁のほうだ。「坂の上の雲」で個人名が挙がっているのは、陸軍大臣寺内正毅と、参謀総長山県有朋


 加えて、司馬さんが参謀職に厳しいのは周知のとおり。特に陸軍の参謀仲間は、諍いが多く描かれており、「小うるさい世界」と評している。作者に限らず、先の大戦を肌で感じた世代は、ノモンハンから特攻にいたるまで、参謀やその経験者が果たした役割を、そう簡単に赦すわけにはいかないのだろう。

 さて、第二回総攻撃である。日本国内ではどういう誤解なのか、早くも旅順が落ちたという号外が出たりの騒ぎが起きているらしい。満洲では沙河の戦いが終わり、膠着状態が続いている。乃木軍を待っている。坑道の作業が終わり、そのすぐあと、9月19日に再び総攻撃が始まる。



(おわり)




紅葉の季節、子規のハンカチを思い出す。
(2017年11月12日撮影)
















































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