正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

旭川の雪  (第162回)

 第二回総攻撃の損害は、日本軍が戦死者1,912名、戦傷者2,728名、ロシア軍が戦死者616名、戦傷者3,837名。兵も物資も、全く補給がない旅順ロシア軍は、「深刻な状況に追い込まれており、司令部内では真剣に講和も検討されていた」。以上、平塚柾緒「旅順攻囲戦」より。

 さっさと講和談判に来ればよいのに、第七師団を加えた日本軍が第三回総攻撃を仕掛けてきた。以下は「坂の上の雲」の「二〇三高地」の章。11月29日、大迫第七師団長と松村第一師団長が高崎山で作戦を練り、それを踏まえて11月30日、未明から二〇三高地と赤坂山への砲撃を始める。


 二〇三高地への歩兵による攻撃の指揮をとったのは、先般、八甲田の遭難事件でも名前を出した友安治延少将(後備歩兵第一旅団長)で、その旗下に旭川の歩兵第二十八連隊が含まれている。学生時代に一度だけ、旭川に行ったことがある。2月上旬で、寒いなんてものではなかった。

 印象に残っているのは、あの独特の民族衣装を身にまとったアイヌのおじさんの姿と、降ってきた雪の結晶。低温なので手袋で受け止めても、しばらくは溶けない。しかも、他の地で見てきたものと異なり、数ミリの大きさがあり、六角形の結晶のデザインが肉眼で見える。あれには驚いた。

 ナショナル・ジオグラフィックの記事によれば、「独学で写真を学んだ米国バーモント州の農夫」、ウィルソン・ベントレー氏が雪の結晶の美しさに魅入られ、幾多の顕微鏡写真を残している。おかげで、”スノーフレークベントレーというあだ名がついた。旭川では、あれが落ちてきた。

 
 旭川歩兵第28連隊は、二〇三高地で名を挙げたが、そのあともノモンハンガダルカナルという、砲弾の嵐の中で無数の若者が命を落とす。旭川は北海道北部の中核都市で、屯田兵のイメージが強い。明治政府が積極的に、屯田兵政策を推進した理由の一端が、この連隊の運命に顕著に表れている。

 同連隊の本来の所属は、大迫師団長の第七師団。「坂の上の雲」に、このあと「村上隊」という名で出てくるのは、「村上雅路という大佐の率いる歩兵第二十八連隊のうちの五個中隊の北海道兵」の部隊。


 匍匐前進中、司令部と異なり戦意の衰えない旅順要塞のロシア軍が砲撃を開始し、村上隊の千人のうち、安全な場所までたどり着けたのは、150〜160人に過ぎなかったとある。「彼らは戦闘したのではなく、移動しただけで殺された。一発の銃弾も撃てずじまいであった」。

 この日に第七師団が突撃し、その途中経過を第三軍が大本営に伝えた電文が、前掲平塚書に引用されている。長くなるので転載しないが、11月30日の午前10時に頂上付近の壕溝から進攻を開始し、午後7時に至るも「尚激戦中」。


 インターネット上には、おそらく「坂の上の雲」を強く意識していると思われる書き込みの中に、乃木と伊地知が「強襲法」を取りやめ「正攻法」(塹壕のことを言っているらしい)を採択したのが成功したというようなことなどが書かれているが、これだけ人を殺しておいて、何が「正攻」法か。もっとも、この正攻法という言葉は、司馬さんも「殉死」で使っている。

 司馬遼太郎も何度かその名を挙げている第三軍の米軍従軍記者スタンレー・ウォシュバンに「NOGI」(1913年)という著作がある。乃木希典に親しく接し、戦後も「Father Nogi」と呼び続けた。翻訳書の題名は「乃木大将と日本人」。翻訳者は新潟出身の目黒真澄、山本五十六と同級生で生涯の友人だった。この本にこういう一節がある。

 軍事評論家が最近兵器の破壊力の増大を説いて、着弾距離の短い場合に、銃剣の使用や肉薄戦の無益なことを断言したのは、日露開戦前十年以来のことであった。ロシア人のブロッホ氏は、一八九〇年代に『戦争の将来』と題する六巻の書を著し、経済上から見ても、破壊力から見ても、戦争の全然不可能事であることを力説した。

 
 この立論は的確であるとして、「後年露国皇帝がヘーグに第一回平和会議開催の提議をなすにいたったのも、彼の著書に動かされたためだといわれたくらいである」と同書の続きにある。「ヘーグ」は通常、日本語で「ハーグ」と書かれる都市名で、一度だけ車で走り向けたことがある。オランダの政治都市で、国際司法裁判所がある地として名高い。

 上記の「露国皇帝」とは、朕は戦争を欲しないと言っておきながらマカーキと戦争をやって負けたニコライ二世ご本人。「ロシア人のブロッホ氏」とは、ポーランド生まれの実業家イヴァン・ブロッホさん。その慧眼を世界中が無視して、このありさまだ。


 日露戦争では、このように事前に敵国の皇帝までが評価していた軍事論を(だからこそ旅順要塞が造られたと言ってよかろう)、例え不可欠で他の選択肢がなかろうと、日本軍が旅順戦で徹底的に無視し、兵の血を以てその正しさを証明したということだ。

 ウォシュバンの報告と警告にも拘わらず、同書の出版の翌年に第一次世界大戦が始まり、終わった年にニコライ二世は退位を余儀なくされ、間もなくロシア革命という暴力により家族もろとも銃殺された。


 二〇三高地は、頂上が二つある。写真で見ても分かるツイン・ピークスだ。志賀重昂は「二子山」と書いている。京都の双ヶ岡を思い出すなあ。志賀先生は冬服に着替えたが、このとき二〇三高地にまだ積雪はない。二つの頂は、北東と南西の方角にある。先述の村上隊は北東角を攻めた。

 南西角は、上記の友安旅団長が率いる後備歩兵第一旅団の後備歩兵第十五連隊が受け持った。連隊長は香月三郎中佐。「香月隊」の名で登場する。かれらも11月30日、西南角にある敵堡塁に向けて進撃した。この友安旅団の司令部には、乃木保典少尉がいる。第三軍司令官の次男の短い一生において、この日が命日になった。



(つづく)




七草粥の日  (2018年1月7日撮影)















































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