若御前 (第23回)
前回の続きです。私が小中学生だった頃の日露戦争の代表的な陸軍の激戦地といえば、旅順・奉天と相場が決まっていて教科書にもそう書いてあり、無論そのこと自体に異論はない。
それでも一読者としての私にとって「坂の上の雲」における陸軍の登場場面のクライマックスは黒溝台である。そう思う要素はたくさんあるので、徐々に触れることにして、今回はそのうちの地味な出来事に触れる。「黒溝台」という長文の章の後半に出てくる。
臨時立見軍を編成する決断にまで至った黒溝台近辺の大激戦のさなかに大山総司令官は、作戦室をうろつくと部下の参謀らの邪魔になるだろうという考えのもと、司令官室にこもって東京日日新聞を読んでいる。みれば投書欄に若き将兵の新妻らしき人の和歌が載っていた。
「許しませ 襟に澆れる暈のあと おもひ焦がれてなく涙なり」。「えりにかかれるしみのあと」が涙のことだ。大山はこれに「身震いするほどの感動」を覚えてしまった。触発されて漢詩まで創り、入って来た部下に見せたものの、恥ずかしくなって取り戻している。
その部下、吉川古太郎少佐は私より遥かに記憶力がよかったようで、大山閣下が一瞬手渡しただけの漢詩の一部を覚えて書き残したようだ。大山は、やはり歌のほうがよいと判断し、「古川サン、その詩のほうは返してください」と言った後で、「作った人は美しい若御前でごわしょうなあ」と感想を述べた。
若御前とかいて「わかごぜ」と読む。うちのPCは不勉強にて漢字転換を拒む。いま出征中の軍人の妻女となれば若いのは想像が付くが、美しいかどうかまで分かるまい。まあいい。古川サンは対応に困り、直立不動のまま待っていた。大山総司令官はようやく参謀室のことを思い出したようで、児玉さんはどうしておられますと訊いた。
このころ児玉は一時、「逆上」するほどの混乱ぶりだったそうだが、「大さわぎしてもなにもならん」と言って上司のマネをし落ちついた。古川副官がありのままを伝えると、大山さんは「ああそうですか」と言ったきりであったという。司馬遼太郎はお得意のレトリックを使って、「古川副官は黒溝台激戦のときの大山について生涯この話を語った。」と書いている。
ところで大山総司令官は、別に読書や詩作ばかりしていたのではないようで、文庫本第七巻といえば前半は奉天の会戦だが、その「退却」の章において、日露開戦後、初めて各軍団の首脳を煙台という自分の本部がある場所に集めて、奉天戦の最終段階に向けて訓示した。
いわく、「来るべき開戦は、日露戦争の関ヶ原なり。ここに全戦役の決戦を期す」。シンプルである。次で勝敗を決める。負けたら終わり。だから勝つぞと言っている。これが2月22日。これから3月10日のクロパトキンのお家芸である退却が始まるまで、両軍の戦死者数と戦闘継続時間でいえば関ヶ原も真っ青の激戦が続く。
このセリフはNHKのスペシャル・ドラマで、大山巌を演じた米倉斉加年も胸を張って語っていたものである。なんでもできる俳優だったし、「ドグラ・マグラ」の装丁も忘れがたい。残念なことに先日、亡くなられた。ご冥福をお祈りします。米倉さん、黒鳩金の寝台、寝心地は良かったですか。
(この稿おわり)
孤高の朝顔 (2014年8月31日撮影)
朝顔や釣瓶とられてもらひ水 加賀の千代女
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